第10回 仁慈の君~井伊直通~
藩主としての在任期間は僅か9年。若くして世を去った直通は、後世にも語り継がれる優しき藩主であった。
父親である先代城主・井伊直興には33人と子が多かったが、ほとんどが夭折している。男子は元服以前に命を落とし、女子も他家に嫁いだ3人以外はみな早逝している。その中で次代を継ぐ白羽の矢が建てられたのが直通であった。
直通は元禄二年(1689年)に江戸で生まれた。直興の第19子。男子としては8番目であった。幼名は亀十郎。兵助ともいう。直通は藩主を継いでもしばらく経つまで彦根城に入ることがなく、江戸の藩邸で過ごしている。
先に述べてしまえば、この5代目の城主もまた、二十二歳という若さでこの世を去ることになる。他の兄弟たちと同じく病に倒れるのがあまりにも早すぎたのだ。十三歳で藩主を継いで在任中に逝去。僅か9年間の城主であり、彦根にいたのはその短い人生の半分にも満たない。
短期間にも関わらず、しかしながら、領民からは「仁慈の君」として篤く信頼されていたという。
直通に関する逸話は多い。いずれも、美談として語られるものだ。
わざわざ高禄の武士を選んで土木作業をさせた。江戸時代は、武士の家禄は先祖の働きで大体の家禄が決められていた。家督を継いだ当人は大した働きをしていないのに高禄を得ている家もあったのだと思われる。そこには、やはり妬みややっかみがあったのであろう。直通は土木事業の役目を与えることでその非難を退けたのである。
他にも奢侈な生活を戒めるために空腹時といえども粗食しか口にしなかったとか、家宝の壺を割ってしまった家臣が側役に罰せられるのを「壊れた器のために人を罰する無意味さ」を説いて免じたなどなど。
その人柄を彷彿とさせる佳話の数々である。質素倹約に努めながら、常に優しさを湛えた藩主であった。
直通は万事この調子の人であったらしい。
その優しい人柄に家臣も領民も慕われた藩主であった。
歴史にもしもはありえないが、それでも、あえて仮定しよう。
もしも、直通が早逝でなかったならば、直政や直孝、そして父の直興と並び称される名君として後世にまで語り継がれていたのは間違いないだろうと。
数あるエピソードの中でも極め付きなのがこれだ。
将軍に代わり京都へ伺候する御代参の仕事を命ぜられたときのことである。
直通は生まれてはじめて彦根城に入城した。
そして、泣いたのである。
一城の主が人目もはばからず、家臣団の前で大粒の涙をこぼしたのだ。家臣たちはその様子に驚き、その涙のわけを直通に尋ねたのだという。
「先祖の武功により(井伊家は)この城郭を賜った。そして、今、自分は数万の領民に主と仰がれているという幸福を思うと、知らずに涙が溢れ出て止めることが出来ないのだ」
井伊家二十九代目、井伊直通。宝永七年(1710年)彦根にて没。光照院天真義空の名が謚られ、市内の清涼寺に葬られている。








