列伝〜井伊家十四代〜

第4回 孤高の赤鬼~井伊直政 其の参~

赤鬼と恐れられ、人斬り兵部と渾名され、それでも止まるところを知らず戦乱を駆け抜けていく。
江戸時代、幕政に欠かせない井伊家の礎を一代で築き上げた井伊直政は、まさに戦国を切り開いた英傑であった。

群雄割拠の戦国時代もやがて大国が小国を飲み込み、より強大な国同士が睨み合う勢力図へと変容を遂げるころになると、どの戦国大名にも片腕と称される武将の存在が確認できるようになる。徳川家康にとっての片腕は井伊直政を置いて他にはいないだろう。後に、徳川十六神将の一人に数えられ、四天王筆頭(注1)とまで呼ばれた直政。中国地方の大名である毛利家を支えた武将・小早川隆景から「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と称されることもあった。その気になれば覇権争いに名を連ねてもおかしくないほどの実力を有していたと噂されていたのである。下克上の世の中において、しかしながら、直政が天下を握ろうと野心を覗かせることは、終になかった。ひたむきに家康のためだけに戦場に向かうのである。

天正十八年(1590年)、関東を制圧した北条氏と大阪の豊臣氏の軋轢から戦乱が勃発した。小田原城周辺で繰り広げられた「小田原の役」である。徳川家康も豊臣軍に与して参戦。直政もそれに従った。
この戦役は、小田原城に立てこもりゲリラ戦を展開した北条軍と城を取り囲んで応戦した豊臣軍という形に分けられる。双方にとって辛抱強さが試される持久戦であった。両軍ともにじりじりと戦力を削られながら戦を続けたのである。どの武将も攻め手を決めかねて動かない中、唯一、小田原城内にまで攻め入った武将がいた。井伊直政率いる赤備え隊である。直政は城内の篠曲輪に夜襲をかけた(注2)。後にも先にも、この戦役で小田原城が戦場となったのはこのときだけである。

やがて、北条氏が降伏することで戦が終わると、豊臣秀吉は奥州を平定して天下統一を成し遂げた。北条氏が領有していた関東はそのまま徳川家康に与えられ、徳川家が江戸での基盤をもつはじめとなる。軍功をあげた直政も、家康から上州箕輪十二万石(注3)の領地を与えられ転居、壮大な城を築城した。このとき、直政には正室の子である万千代(注4)と側室の子である弁之介(注5)、それから娘が一人いた。
徳川家康の関東移封に伴い、家康の四男・松平忠吉も忍十万石(注6)を領した。このとき、忠吉に妻を持たせることとなり、直政の娘がその夫人となる。井伊直政は徳川家と晴れて姻戚関係にまでなったのである。家康の恩義に尽くすことにその身を捧げてきた直政にとって、それは至上の瞬間であったであろう。

慶長三年(1598年)、直政は箕輪城を廃し上州和田に移る。より壮大な高崎城を築城する。
そして翌々年。長かった戦国時代が終わりを告げる。

慶長五年(1600年)9月15日。豊臣秀吉没後の覇権争いから徳川家康を中心とする東軍と石田三成(注7)を中心とする西軍に全国の武将が二分する戦に発展。後に天下分け目と称される「関ヶ原の合戦」が起こったのである。

この歴史の行く末を決定づけた大戦であるが、その開戦には直政のよるところが大きい。
その日。関ヶ原は早朝から立ち込めた濃霧で、隣の軍の様子も判然としなかったらしい。家康から先陣を任されていた福島正則はじっと開戦の時期を待っていた。2時間ほど両軍は睨み合っていたという。そこに直政が義理の息子となる忠吉をつれて現れた。ただならぬ直政の雰囲気に気づいた福島家臣団はそれを止めようとするが、直政は頑として歩を緩めなかった。直政は言う「ここにおわすは、家康公のご子息にして松平下野公である。下野公は初陣のため、後学に先陣を物見に行く」。家康の息子であるという言が効いたのか、福島軍に通り道が出来ると、直政はそのまま敵陣へ突進。忠吉が宇喜多秀家軍(注8)に発砲した銃声により、戦の火蓋は切って落とされたのだった。
直政にしてみれば、徳川家の命運を左右するような戦で、徳川家ではない福島正則が一番乗りの名乗りを上げることが我慢ならなかったのだ。『徳川が動いたために開戦した』という結果がほしかったのである。

戦が始まると、両軍入り乱れての混戦となった。直政は忠吉とともに島津義弘(注9)の陣中に切り込み瓦解させた。敵が敗走をはじめても直政は追撃の手を緩めることはなかった。これまで勝ち取ってきたやり方である。そこにいたのは、家臣団ですら置いて行きがちに真っ先に戦乱を駆け巡る「孤高の赤鬼」の姿であった。傷を負うのは当たり前のことで、それでも命を落とさずにこれまでの軍功を上げられたのは、直政には武勇と強運という天賦の才が備わっていたからであろう。
しかし、その強運も底をついたのか、そこで直政は致命傷を負う。
隠れ潜んでいた島津軍の伏兵が放った凶弾を受けたのである。幸い急所を逸れ、右腕に当たったのは運が良かっただろうが、やがてその傷が直政の命を奪う決定的なものとなるのである。

当初、戦は西軍有利と誰もが疑っていなかったが、蓋を開けてみれば、勢いづいた東軍の勝利であった。直政が強引にきった先陣の勢いに乗った結果であるといえるかもしれない。

慶長六年(1601年)、直政は戦場での武功により加増。石田三成の本拠であった近江佐和山十八万石を拝領し、佐和山城に移った。
しかし、直政は戦で受けた銃創から敗血症(注10)を併発し、床に伏せるようになった。
己の死期を悟った直政は、郷里である井伊谷に帰れないことを悔やみ、近江国にも井伊谷と同じ龍潭寺を建立することを遺言とした。
そして、戦乱で荒廃した佐和山城より住み良く立派な城を築城することも加えられた。

慶長七年(1602年)、春まだ浅い二月十一日。井伊直政没。享年四十二歳であった。
直政の遺体は佐和山城下の程近くを流れる芹川の中州に運ばれ、嫡男・直継をはじめ多くの家臣団が見守る中、荼毘に付された。当時、一角の武将が死ぬときには、家臣団が殉死することは珍しくなかったが、直政の死に追従する家臣は一人もいなかったという。「孤高の赤鬼」は最後まで一人で動乱を駆け抜けていったのである。その遺骨は彦根の清涼寺と井伊谷の龍潭寺に分骨されて葬られた。

翌年、徳川家康が征夷大将軍に任命される。三百年間泰平と謳われる江戸時代の始まりである。
戦国時代の只中に生まれ、駆け抜け、時代の終焉とともに生涯を閉じた井伊直政。彼の言葉の中にその精神が垣間見られるものがある。
病床の枕元に筆頭家老の木俣守勝を呼んだ直政は後事についてこう言い残したという。
 「井伊家があるのは徳川殿のおかげであることを忘れてはならぬ。家督を継ぐものは代々、御奉公第一、忠節一筋を心掛けることを申し送るよう務めろ」
後に、譜代大名筆頭として7人もの大老(注11)を輩出し、江戸幕府には欠かせない大名家となった井伊家の歴史はここから始まったのである。

注1)徳川家康に仕えた側近で江戸幕府の創業に功績を立てた4人の武将を顕彰して四天王と呼ぶ。井伊直政のほかに、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政があげられる。また、直政、忠勝、康政の3人を特に挙げて、徳川三傑と呼ぶこともある。
注2)しのぐるわ。小田原城内に設けられた囲いのこと。別名「捨て城」とも呼ばれ、敵に占領されることが前提の砦。ここに気を取られている間に本城から兵が攻め込み、一網打尽にする役割を担っていた。直政は攻め入るも、深追いはせず敵兵四百ばかりをとり撤退した。
注3)現在の群馬県箕郷町。上州とは上野国(こうずけのくに)のこと。
注4)後の井伊家二十五代当主にして、彦根城主初代となる井伊直継。後に弟に家督を譲り直勝と改名、上州安中三万石に転封される。
注5)後の井伊家二十六代当主にして、彦根城主二代となる井伊直孝。
注6)現在の埼玉県行田市。武蔵忍城は関東7名城の一つに数えられている。読みは「おし」。
注7)近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)出身の戦国武将。近江佐和山十九万石の城主。豊臣秀吉政権下五奉行の一人。数々の戦で軍功を上げるも、関ヶ原の合戦で敗北。伊吹山中に逃れるも捕らえられ、六条河原で処刑された。
注8)豊臣秀吉政権下五大老の一人。関ヶ原の合戦では本田忠勝軍と激戦を繰り広げるも敗退。
注9)薩摩国(現・鹿児島県)の武将。関ヶ原の合戦では、当初家康側につくはずであったが、いざこざにより西軍に加勢。東軍から激しい追撃を受けるも応戦しながら撤退。このとき、井伊直政と松平忠吉に手傷を負わせる。戦地から街道を外れ、険しい鈴鹿山中を横切って逃れたルートは「島津越え」として今もその名をとどめている。
注10)細菌によって引き起こされる感染症の一つ。直政は戦で受けた銃創から破傷風に感染し、敗血症を合併して病に倒れたといわれている。
注11)たいろう。江戸幕府において将軍の補佐役を担い、臨時に老中の上に置かれた最高職。井伊家は7人(厳密には6人・内一人が再任)もが大老職に就き、その数は群を抜き最多である。

参考資料:「井の国千年物語」編集委員会 編/発行『井伊氏とあゆむ 井の国千年物語』2005年

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これは精緻な歴史年表ではありません。彦根城を象る物語なのです。

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