第5回 新時代の礎~井伊直継~
長かった戦乱の時代が終わりを告げ、新しい徳川幕府の指導の下、日本は泰平の世を歩み始める。
近世の幕開けとともに彦根城と藩の基礎を築き上げたのが初代城主直継である。
群雄割拠の戦国時代が終わりを告げたといっても、時代は突如泰平に治まるというわけにはいかない。徳川家康が征夷大将軍に任命されたということに反目する地方の戦国大名は多く、いつ日本全土を巻き込むほどの戦乱が勃発してもおかしくない不安定な情勢はなおも続いていた。これから数十年という歳月をかけ、様々な人たちの尽力により安寧の礎を築いていくのである。
戦乱の中、赤鬼と恐れられた井伊家二十四代直政に嫡子が誕生したのは天正十八年(1590年)のことであった。ちょうど直政が家康軍として小田原北条氏と矛を交えていたときの頃である。正室との間に生まれたその子は直政と同じ幼名、万千代と名づけられた。直政期待の嫡男という見込みもあったのだが、どうやら万千代は生来病弱であったらしい。父の豪傑な気質をあまり濃く受け継いではいなかった。
同じ年、直政の側室に次男・弁之介が誕生している。
万千代は、それでも、父が次々と武功を挙げていく傍らですくすくと成長する。この頃になると、直政は自他共に認める徳川四天王の筆頭としての地位を不動のものとしていたはずであるから、大勢の家中に見守られる中、万千代は息災な日々を過ごしていたのだろう。
しかし、それも長くは続かなかった。
慶長五年(1600年)に勃発した関が原の合戦で直政被弾。その傷が元で2年後に生涯を閉じる。頭首の急逝により、井伊家は万千代を新頭首にすえた。このとき、万千代13歳。名を井伊家二十五代直継と改める。些か若すぎる元服であった。
盛大に直政の葬儀を執り行った直継には、父が残した戦乱の事後処理が待っていた。しかし、未だ年端もいかない直継が藩政を執ることは難しく、筆頭家老の木俣守勝が助言するなどして協力していたようである。
まず、直継が取り掛かったのは、父の遺言である「新城築城」であった。
徳川家康から、関ヶ原の褒賞として近江佐和山十八万石を与えられていた井伊家であったが、佐和山城内は度重なる戦で荒廃しており、なにより、敵方であった石田三成の居城に住まうことを忌み嫌った直政は、生前、常に違う場所に城を築くことを望んでいた。佐和山は中仙道と北国街道を見張るためには最も重要な軍事で拠点であったのだが、直政のプライドが許さなかったのだろう。当初、直政は琵琶湖岸の磯山(注1)に新城を建設しようとしていた。
直政没後、家督を継いだ直継の元に、西国の防衛拠点として新城築城をするようにと幕府から伝令が下る。佐和山城にいた若い直継はその建設予定地に悩んでいた。そこに家老の木俣守勝が再検討の末、琵琶湖から広がる内湖に浮かぶ彦根山(注2)にすることを進言し、直継の同意の下、築城工事が着工する運びとなった。
彦根城の始まりである。
この事業は、幕府管理の下で行われた天下普請であった。国を挙げて彦根城築城に臨んだのである。幕府から3人の公儀御奉行が派遣され、周辺7カ国12大名が手伝いに当たらされる大工事であった。大津城の天守、小谷城の三重櫓、長浜城の天秤櫓、佐和山城の太鼓門櫓など近江国内有数の建造物を移築し建設に当てられた。
慶長十一年(1606年)、第二期工事までが終了し天守が完成すると同時に直継は入城する。彦根城主の誕生であるとともに、彦根藩の始まりであった。
井伊直継という人は、戦乱を駆け抜けた父に似ず、旧体制を打ち崩すより新体制を固めることに秀でていたようである。
江戸時代の草創期というのは、まだ細かい戦が続いている時代であるが、直継は父ほど後世に語り継がれるような武勇は見せていない。それどころか、生来の病弱が障ってか、参戦しないことも多かったという。そのかわり、城や街道の整備に心血を注ぎ、新時代の体制を作り上げていった。
慶長十九年(1614年)、豊臣氏の最後の抵抗となる大阪の陣(注3)が勃発。再び天下を二分する争いとなった。
先代直政の頃から徳川家の信頼が篤かった井伊家にも参戦するように招集がかかるが、直継は体調を崩しており、戦列には加わらないで上州安中(注4)の関所警備を行った。直継に変わって弟の直孝が戦場に赴き、期待通りの武功を挙げる。
頭首であり、なにより兄の直継より、弟の直孝の方が活躍したという結果を重んじた徳川幕府は、彦根藩の頭首交代を命じる。直孝が彦根城2代目城主として入城、直継は上野国安中三万石に分家として転封されることになる。直継が父から受け継いだ近江の地で、嫡男としての役割は十数年程度であった。
直継はこれを機に直勝と名を改め、わずかな家臣を引きつれ居を移っていく。
安中に移った直勝は城下町や関所の整備を行ったといわれる。この地でもその礎を築くことに専心したのである。
その後、直勝は西尾藩(注5)、掛川藩(注6)と移り住み寛文二年(1662年)に遠江国で生涯に幕を下ろした。井伊家の分家として残った直勝の子孫たちは、後に越後与板に移り住み幕末まで続く家系となる(注7)。
病弱が故にか、戦場での功績は薄いものの、新時代の礎を築くことに尽力した井伊直勝。享年73歳。途中で彦根城主を明け渡した弟・直孝より長寿であったことは皮肉である。








