第20回 開国の大老~井伊直弼 其の参~
尊皇攘夷、開国、公武合体、佐幕、倒幕……あらゆる角度から様々な思いが吹き荒れた幕末。
日本史を語る上で決して欠かすこの出来ない大老は、固い信念の下、次の時代を見据えていた。
江戸に戻った直弼を待っていたのは、焦燥感と疑心で暗雲の立ち込めた江戸城だった。ペリー来航は、もはや諸藩や江戸城だけで片付けることの出来ない問題として日本中に波紋を広げている。開国か
併せて、彦根藩に問われた責任も大きかった。直弼は、今や
安政元年(1854年)、幕府は再び来航したペリーと
本来、彦根藩が務めていたのは天皇家を護る京都守護である。この頃になってくると、黒船は、江戸湾近郊に出現するのみとは限らなくなっていた。京都に近い紀伊水道や大阪湾にも頻繁に現れている。実際、事の重大さを鑑みた朝廷は、天皇による彦根
しかし、時代は風雲急を告げる幕末。歓喜に割く時間などない。彦根藩が京都守護の任についた直後、京都御所が炎上。直弼は江戸城で幕政に参加しながらも、新たに禁裏御守護隊を結成して御所や公家の不安を除くことに奔走せねばならなかった。
その間にも、欧米列強は手を休めることなく、不平等条約の締結を催促し続けてくる。未だ開国の準備が整っていない日本は、外からの脅威と内からの不満を抱え、一触即発の状態にあった。文字通りの内憂外患。直弼の体が休まることはなかった。
安政三年(1856年)、先の条約で開港した下田のアメリカ領事館にタウンゼント・ハリス(注6)が赴任。通商条約締結を目的とした江戸出府を希望してくるようになる。
外国人が江戸城に登城するなどこれまで考えられなかった事態である。この頃、江戸城内は水戸藩らの尊王攘夷派と老中・
徳川御三家(注8)のひとつである水戸藩と幕閣の最高責任者である老中の対立は、そのまま江戸城内を二分した。
そこへハリスの江戸出府要請である。ハリスは日に日に不満を募らせた進言をしてくるようになっていた。このままでは武力行使に打って出られる可能性もある。太平を貪ってきた幕府の武力では、欧米の最新式火力には太刀打ちできないのが明らかなのは、先の黒船騒動で歴然としていた。
攘夷派の中には過激な意見も飛び交うようになってきた。開国派の堀田老中といえど、それを抑えることはできないでいる。また、これほどの大事であれば、天皇の許可がなければ通らない。時の孝明天皇は公武合体(注9)で諸外国の脅威から脱しようとする攘夷派であった。当然、ハリスの思惑が叶うことなく、開国派は肩身の狭い思いをしなければならなかった。城内での立場から、その矢面に立たねばならなかったのは、他でもない直弼であった。
時を同じくして将軍の跡継ぎ問題がおこる。13代将軍の徳川家定には嫡子がなく、その跡継ぎを巡って、御三家の一つである紀伊和歌山藩主・徳川
溜間詰大名筆頭である直弼の言葉は、重大な責任を負う。そのまま国政を動かす責任となって直弼自身に重く跳ね返ってきていた。
安政五年(1858年)、直弼は、同じ南紀派から挙げられて史上12人目の大老に就任する。埋木舎で自身を果敢なんでいた人物が、将軍に次ぐ国政の頂点まで上り詰めたのである。
大老となった直弼が、まず取り組んだのは外交であった。
アメリカ領事のハリスには、もう何度も条約調印延期を伝えて続けている。痺れを切らすのは時間の問題である。しかし、朝廷は直弼が大老になったとき、開国を勧める南紀派が勢いづいて攘夷をうたう一橋派を排斥し始めたのを面白く思っていない。南紀派から大老に挙げられた直弼に
調印をしなければならないことは明白である。しかし、勅許を待たずして調印してしまえば、後に困難な事態を惹き起こすことも明白。直弼は、江戸城内が無断調印を決行すべきと盛り上がる中、最後まで勅許が降りるのを待っていた。
じっくりと朝廷、幕府、諸藩の意見をまとめ、国中で一枚岩となった上で調印に臨もうとしていた直弼の目算は悲しくも実現することはなかった。
アメリカのみならず、フランス、イギリス、ロシアなどの大国が江戸湾内で武力をちらつかせるようになったのである。このままでは日本が第2の阿片戦争(注14)の舞台となりかねない。
直弼は、違勅の誹りを覚悟の上で、また、事後全ての責任を取ることも含めて、苦渋の決断をせねばならなかった。
歴史に“もしも”は許されないが、しかし、仮に、直弼がこの時、決断を下していなければ、近代日本は世界の中で取り残されていたかもしれない。
同年6月。横浜沖に碇泊中のアメリカ軍艦ポウハタン号の船上で、
予想通りというか、必然というか、勅許を待たずして調印に踏み切った直弼に避難が集中した。特に、攘夷派からは完全に敵視されることになる。時の天皇をはじめ、雄藩の多くを向こうに回さざるを得なかったのを最も悔やんだのは、おそらく直弼自身だったのだろう。
しかし、もはや人間一人の思惑では収拾がつかないほど世の中は騒擾し、混乱していた。
孝明天皇が水戸藩に対して
幕府よりの立場だった関白が尊皇攘夷派によって辞職に追い込まれると、幕府から老中自ら京都に出向いて首謀者を逮捕。これを皮切りに空前の大弾圧が始まる。後にいう「安政の大獄」である。
京都でも江戸でも、逮捕され処罰される人が後を絶たなかった。「安政の大獄」で弾圧されたのは100名以上に上るといわれる(注17)。徹底した弾圧製作は多くの血を流す結果をみせた。大老はその筆頭に居なければならなかった。直弼一人が大獄の首謀者と目され、敵味方問わず、非道な仕打ちを行う「井伊の赤鬼」と揶揄し、畏れるようになっていた。
直弼は、しかし、大獄を望んではいなかった。出来る限り“小獄”で終えられるよう、各方面への根回しを怠らなかったともいわれる。開国を断行したことは後悔していない。しかし、その責任があるのならばとらなければならないのも道理である。
直弼は避けられない世の中の流れから目を逸らすことなく、常に次の時代を見ていたのだろう。
直弼自身も、また、志士から命を狙われる存在となった。
周囲からは、その身を案じ、大老を勇退してはどうかという進言もあったが、直弼は最後まで責任を果たすため、頑としてそれを拒んでいたという。
「春あさみ 野中の清水氷居て そこのこころを くむ人ぞなき」
直弼が勇退を勧められたときに詠んだといわれる一首。
今は自分の政策を理解してもらえないが、もう時代は冬を越えて春を迎えている。いずれ、自分の真意を汲み取る人が出てくるだろう……。
直弼は、自分の信じた道を、実直に歩む決心を固めていたのである。
安政七年(1860年)。
大獄は未だ続いている。
志士たちが不穏な動きをしているらしいとの情報は、おそらく直弼の耳にも届いていたと思われる。だが、直弼が信念を曲げることはなかった。
そして同年弥生3日。
上巳の節句を迎えた江戸の町は、この季節には珍しい雪模様であった。
幕府の要職に就く者は、節句の祝いを述べに登城するのがならわしである。
外桜田にあった井伊家の上屋敷からは桜田門を通って城内に入るのが決まっていた。
この日。
江戸城桜田門のすぐ外側で、時の幕府大老が暗殺された。
後に「桜田門外の変」と呼ばれるこの事件をきっかけに、大獄は沈静化し、幕末は一つの転換点を迎えることになる。
大老の名は井伊直弼。
国を開き、近代への礎石を築いた人物。
13人目の彦根藩主である。
参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・「井伊直弼」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年11月22日20:00(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直弼
・「タウンゼント・ハリス」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年11月22日20:10(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/タウンゼント・ハリス
・「安政の大獄」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年11月22日20:20(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大獄
・「桜田門外の変」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年11月22日20:30(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/桜田門外の変








