列伝〜井伊家十四代〜

第20回 開国の大老~井伊直弼 其の参~

尊皇攘夷、開国、公武合体、佐幕、倒幕……あらゆる角度から様々な思いが吹き荒れた幕末。
日本史を語る上で決して欠かすこの出来ない大老は、固い信念の下、次の時代を見据えていた。

江戸に戻った直弼を待っていたのは、焦燥感と疑心で暗雲の立ち込めた江戸城だった。ペリー来航は、もはや諸藩や江戸城だけで片付けることの出来ない問題として日本中に波紋を広げている。開国か攘夷じょうい(注1)か、250余年続いた江戸幕府は究極の2択を迫られていた。
併せて、彦根藩に問われた責任も大きかった。直弼は、今や溜間とどめのま(注2)詰大名の筆頭である。加えて、ペリーが来航した浦賀と応接地の久里浜(注3)は彦根藩が警備担当地区であった。
安政元年(1854年)、幕府は再び来航したペリーと日米和親条約にちべいわしんじょうやく(注4)を締結。下田と箱館を開港し、ここに江戸幕府の矜持であった鎖国体制は崩壊した。彦根藩は、警護地区を江戸湾近海に変更した。

本来、彦根藩が務めていたのは天皇家を護る京都守護である。この頃になってくると、黒船は、江戸湾近郊に出現するのみとは限らなくなっていた。京都に近い紀伊水道や大阪湾にも頻繁に現れている。実際、事の重大さを鑑みた朝廷は、天皇による彦根遷幸せんこう(注5)を真面目に検討していた。幕府は、彦根藩の海岸警備の任を解き、京都守護職に戻す。重要な場所を、地の利に通じた彦根藩に託したのであり、また、伝統の家格を回復するという直弼の悲願が叶った瞬間でもあった。
しかし、時代は風雲急を告げる幕末。歓喜に割く時間などない。彦根藩が京都守護の任についた直後、京都御所が炎上。直弼は江戸城で幕政に参加しながらも、新たに禁裏御守護隊を結成して御所や公家の不安を除くことに奔走せねばならなかった。

その間にも、欧米列強は手を休めることなく、不平等条約の締結を催促し続けてくる。未だ開国の準備が整っていない日本は、外からの脅威と内からの不満を抱え、一触即発の状態にあった。文字通りの内憂外患。直弼の体が休まることはなかった。
安政三年(1856年)、先の条約で開港した下田のアメリカ領事館にタウンゼント・ハリス(注6)が赴任。通商条約締結を目的とした江戸出府を希望してくるようになる。
外国人が江戸城に登城するなどこれまで考えられなかった事態である。この頃、江戸城内は水戸藩らの尊王攘夷派と老中・堀田正睦ほったまさよし(注7)らの開国派の対立が深刻になっていた。埋木舎時代の頃から世の中を学ぶことを欠かさなかった直弼は、溜間詰となった今もそれは変わらず、諸国の情勢や『オランダ風説書』などから、国を守るためにはいち早く列強と通商貿易を開始すべきと、開国を勧めていた。
徳川御三家(注8)のひとつである水戸藩と幕閣の最高責任者である老中の対立は、そのまま江戸城内を二分した。
そこへハリスの江戸出府要請である。ハリスは日に日に不満を募らせた進言をしてくるようになっていた。このままでは武力行使に打って出られる可能性もある。太平を貪ってきた幕府の武力では、欧米の最新式火力には太刀打ちできないのが明らかなのは、先の黒船騒動で歴然としていた。
攘夷派の中には過激な意見も飛び交うようになってきた。開国派の堀田老中といえど、それを抑えることはできないでいる。また、これほどの大事であれば、天皇の許可がなければ通らない。時の孝明天皇は公武合体(注9)で諸外国の脅威から脱しようとする攘夷派であった。当然、ハリスの思惑が叶うことなく、開国派は肩身の狭い思いをしなければならなかった。城内での立場から、その矢面に立たねばならなかったのは、他でもない直弼であった。
時を同じくして将軍の跡継ぎ問題がおこる。13代将軍の徳川家定には嫡子がなく、その跡継ぎを巡って、御三家の一つである紀伊和歌山藩主・徳川慶福よしとみ(注10)を擁立した南紀派と御三卿(注11)の一人・一橋慶喜よしのぶ(注12)を擁する一橋派の対立となった。一橋派の中心は、水戸藩らの雄藩が占めており、以前からこれに相対していた直弼は南紀派を推した。
溜間詰大名筆頭である直弼の言葉は、重大な責任を負う。そのまま国政を動かす責任となって直弼自身に重く跳ね返ってきていた。

安政五年(1858年)、直弼は、同じ南紀派から挙げられて史上12人目の大老に就任する。埋木舎で自身を果敢なんでいた人物が、将軍に次ぐ国政の頂点まで上り詰めたのである。

大老となった直弼が、まず取り組んだのは外交であった。
アメリカ領事のハリスには、もう何度も条約調印延期を伝えて続けている。痺れを切らすのは時間の問題である。しかし、朝廷は直弼が大老になったとき、開国を勧める南紀派が勢いづいて攘夷をうたう一橋派を排斥し始めたのを面白く思っていない。南紀派から大老に挙げられた直弼に勅許ちょっきょ(注13)が下るはずもなかった。刻一刻と決断を迫られる中、直弼は悩みに悩んだ。
調印をしなければならないことは明白である。しかし、勅許を待たずして調印してしまえば、後に困難な事態を惹き起こすことも明白。直弼は、江戸城内が無断調印を決行すべきと盛り上がる中、最後まで勅許が降りるのを待っていた。

じっくりと朝廷、幕府、諸藩の意見をまとめ、国中で一枚岩となった上で調印に臨もうとしていた直弼の目算は悲しくも実現することはなかった。
アメリカのみならず、フランス、イギリス、ロシアなどの大国が江戸湾内で武力をちらつかせるようになったのである。このままでは日本が第2の阿片戦争(注14)の舞台となりかねない。
直弼は、違勅の誹りを覚悟の上で、また、事後全ての責任を取ることも含めて、苦渋の決断をせねばならなかった。
歴史に“もしも”は許されないが、しかし、仮に、直弼がこの時、決断を下していなければ、近代日本は世界の中で取り残されていたかもしれない。

同年6月。横浜沖に碇泊中のアメリカ軍艦ポウハタン号の船上で、日米就航通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく(注15)が締結された。日本はついに、閉じていた門戸を開き、次に訪れる時代へ向けて、国を開いたのである。

予想通りというか、必然というか、勅許を待たずして調印に踏み切った直弼に避難が集中した。特に、攘夷派からは完全に敵視されることになる。時の天皇をはじめ、雄藩の多くを向こうに回さざるを得なかったのを最も悔やんだのは、おそらく直弼自身だったのだろう。
しかし、もはや人間一人の思惑では収拾がつかないほど世の中は騒擾し、混乱していた。

孝明天皇が水戸藩に対して戊午の密勅ぼごのみっちょく(注16)を下すと、江戸城内は派閥間の争いが顕著となっていった。敵味方の暗闘が繰り広げられ、大老にいたっては、城内で出されたあらゆる茶湯を口にしてはならないと言われるほど、命の危険が常に身近に潜むようになったのである。一方、京都では、政変を目論む尊王攘夷派や一橋派の大名、公卿、志士らが集まるようになってきていた。直弼が、いくら責任を一人で負うことを決していたとはいえ、それだけでは収拾するはずもなかった。佐幕か倒幕か、事態はその局面を迎えようとしていた。
幕府よりの立場だった関白が尊皇攘夷派によって辞職に追い込まれると、幕府から老中自ら京都に出向いて首謀者を逮捕。これを皮切りに空前の大弾圧が始まる。後にいう「安政の大獄」である。

京都でも江戸でも、逮捕され処罰される人が後を絶たなかった。「安政の大獄」で弾圧されたのは100名以上に上るといわれる(注17)。徹底した弾圧製作は多くの血を流す結果をみせた。大老はその筆頭に居なければならなかった。直弼一人が大獄の首謀者と目され、敵味方問わず、非道な仕打ちを行う「井伊の赤鬼」と揶揄し、畏れるようになっていた。
直弼は、しかし、大獄を望んではいなかった。出来る限り“小獄”で終えられるよう、各方面への根回しを怠らなかったともいわれる。開国を断行したことは後悔していない。しかし、その責任があるのならばとらなければならないのも道理である。
直弼は避けられない世の中の流れから目を逸らすことなく、常に次の時代を見ていたのだろう。

直弼自身も、また、志士から命を狙われる存在となった。
周囲からは、その身を案じ、大老を勇退してはどうかという進言もあったが、直弼は最後まで責任を果たすため、頑としてそれを拒んでいたという。

「春あさみ 野中の清水氷居て そこのこころを くむ人ぞなき」

直弼が勇退を勧められたときに詠んだといわれる一首。
今は自分の政策を理解してもらえないが、もう時代は冬を越えて春を迎えている。いずれ、自分の真意を汲み取る人が出てくるだろう……。
直弼は、自分の信じた道を、実直に歩む決心を固めていたのである。

安政七年(1860年)。
大獄は未だ続いている。
志士たちが不穏な動きをしているらしいとの情報は、おそらく直弼の耳にも届いていたと思われる。だが、直弼が信念を曲げることはなかった。

そして同年弥生3日。
上巳の節句を迎えた江戸の町は、この季節には珍しい雪模様であった。
幕府の要職に就く者は、節句の祝いを述べに登城するのがならわしである。
外桜田にあった井伊家の上屋敷からは桜田門を通って城内に入るのが決まっていた。
この日。
江戸城桜田門のすぐ外側で、時の幕府大老が暗殺された。
後に「桜田門外の変」と呼ばれるこの事件をきっかけに、大獄は沈静化し、幕末は一つの転換点を迎えることになる。

大老の名は井伊直弼。

国を開き、近代への礎石を築いた人物。
13人目の彦根藩主である。

(注1)江戸末期、外国との通商に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうとする排外思想。
(注2)江戸城内で有力譜代大名らが集った場所。幕政にも影響力を持っていた。
(注3)浦賀、久里浜ともに、現在の神奈川県横須賀市東部にある地名。
(注4)日本の鎖国を終わらせた条約。薪水給与のための下田と箱館(後の函館)の海港・漂流民の救助、引渡し・アメリカ人居留地を下田に設定する・片務的最恵国待遇などが条約の主な内容となった。不平等条約として明治以降も日本外交にのしかかる。
(注5)天皇が朝廷や日本の中心を移すこと。
(注6)アメリカ合衆国の外交官。初代駐日大使。14代将軍・徳川家茂に謁見し、日米修好通商条約を締結した。日本には5年9ヶ月滞在した。
(注7)下総国佐倉藩の第5代藩主で幕末の老中。「蘭癖らんぺき」と呼ばれるほどの西洋通で、開国論者だった。同じ開国論者の直弼とも親交が深かったといわれるが、将軍後継問題で、開直弼とは相対する一橋派に属したため、後に大老となった直弼に罷免され失脚する。しかし、これは直弼にとっても苦渋の決断であったらしく、後に安政の大獄で多くの一橋派が弾圧されている中、堀田正睦だけは不問となっている。
(注8)徳川将軍家の親戚筋にあたる家系で、将軍家と同じ徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋を使用できることが認められていた家系。尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家がある。
(注9)江戸時代後期、公家(朝廷)の伝統的権威と武家(幕府)を結びつけて幕府権力の再構築を図ろうとした政策。孝明天皇は後に妹の和宮かずのみやを14代将軍・家茂に嫁がせ、公武合体を勧めた。和宮は皇女が武家に降嫁し、関東下向した唯一の例。
(注10)後の14代将軍・徳川家茂いえもち
(注11)江戸時代中期に分家した徳川氏の一族。8代将軍・徳川吉宗からの血筋となる。田安徳川家、清水徳川家、一橋徳川家がある。
(注12)後の15代将軍・徳川慶喜。日本史上最後の幕府将軍となった人物。
(注13)天皇から直接下される命令。
(注14)清とイギリスの間で1840年から2年間起こった戦争。清国は敗戦し、強引に不平等条約を締結させられ、近代に到るまで実質上、イギリスの影響下に置かれていた。
(注15)日本とアメリカの間で結ばれた通商条約。不平等条約の一つ。下田港を閉港し、新たに神奈川、長崎、箱館、新潟、兵庫の5港を開港すること・領事裁判権をアメリカに認めること・江戸、大阪の開市・自由貿易・片務的最恵国待遇などが決められた。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・ロシア・オランダとも結んだ(安政の五カ国条約)。
(注16)孝明天皇が正式な手続きを経ないで、水戸藩に直接、勅書を下賜した出来事。安政の五カ国条約に対する詳細な説明と公武合体を進める旨が記してあった。幕府の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府が蔑ろにされ威信が傷つけられたということであり、安政の大獄を起こす引き金となった。
(注17)日米修好通商条約への無断調印と将軍・家茂就任に反対する派閥に属していた尊皇攘夷派や一橋派の大名、公家、志士らが弾圧の対象とされた。吉田松陰や橋本佐内といった活動家の処刑や、水戸藩や尾張藩藩主の蟄居など大々的に行われている。「桜田門外の変」を引き起こすきっかけとなった事件であり、後に直弼の評価を「維新の志士を弾圧した大悪人」か「開国を断行して日本を救った政治家」と二分する事件の一つとなっている。

参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・「井伊直弼」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年11月22日20:00(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直弼
・「タウンゼント・ハリス」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年11月22日20:10(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/タウンゼント・ハリス
・「安政の大獄」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年11月22日20:20(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大獄
・「桜田門外の変」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年11月22日20:30(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/桜田門外の変

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