第19回 開国の大老~井伊直弼 其の弐~
世子として急に表舞台に立つこととなった直弼。
同じ頃、近海には欧米列強が続いて現れ、時代は開国へ向けて速度を増していた。
弘化三年(1846年)、藩政の表舞台に立つことも、城を出ることも叶わず、不本意の塊を抱えたまま世捨て人然とした暮らしを埋木舎で続けていた直弼に急な転換点が訪れる。
兄で、藩主の直亮(注1)の子である井伊直元が急逝したという報せである。
直亮には他に嫡子がなく、幕府への体面上、井伊家の血統を絶やすことが出来ない彦根藩が、次代を担う跡継ぎとして白羽の矢を立てたのが直亮と同じ先代藩主・直中(注2)の血を引く直弼であった。
直弼は、兄の養子となり、正式に彦根三十万石の世子(注3)となる。同時に従四位下・侍従・
彦根藩の世子は、定府と決められていた。直弼は15年間暮らした埋木舎を出、江戸の外桜田(注4)にある彦根藩の上屋敷に移った。藩主が帰国して江戸にいない場合、代わりに
弘化三年といえば、アメリカ東インド艦隊のビッドル司令官が浦賀に軍艦を率いて来航し互市を求めたのをはじめ、フランス、デンマークなど欧米列強の黒船が頻繁に日本近海に出現していたころであり、鎖国政策に支えられてきた江戸幕府が不安に揺れ動いていた時代でもある。旧態依然としたシステムを維持していくか、未知にして負のイメージばかりが先行する新しい門戸を開放するか、選択を迫られていた。
翌年、幕府は相模湾及び房総半島周辺の海岸線防衛を増強することを決める。警護に抜擢されたのが会津・川越・
彦根藩は代々、京都守護を任せられた家柄である。加えて、西国三六カ国の抑えという地位にもあった。本来なら、国防の最前線に立つことは無かったはずである。
よほど幕府からの信頼が篤かったのか、何かの間違いか、その役目の現場責任者となったのが、江戸にいた直弼であった。直弼自身、まさかと疑う気持ちがあったのだろう。しかし、そこで妙な言いがかりを持って危険な役目から早々に身を引こうとしなかったのは、やはり井伊家の血筋というべきである。
「藩祖(注6)以来、先鋒を務めるのが井伊家の家柄なのだから、最前線に置かれるというのも相応しい。一旦、世間が驚くほどに手厚く勤めた上で、これまで通りの京都守護専任に戻ればいい」
直弼は常に、時代の前を向いていた。
嘉永三年(1850)年末。兄の直亮が亡くなり、直弼は正式に彦根藩主を継いだ。彦根藩主の代々に倣い
しかし、藩主になったとはいえ、不安定な幕政、迫り来る列強、藩内の政務、直弼が心休まることは無かった。特に海外情勢を知るための『オランダ風説書(注7)』では、アメリカの艦隊がいつ来日してもおかしくないことを予言している。気を抜いている間などなかった。
嘉永六年(1853年)、直弼は参勤交代の決まりにより、黒船の脅威を気にしつつも、一度彦根に帰国する。途中、藩領であった佐野(注8)を巡視した後ようやく彦根城にたどり着き、旅装束を解こうとしていた矢先の話である。
同年7月8日。アメリカ東インド艦隊司令長官であるマシュー・C・ペリーが旗艦「サスケハナ」を筆頭に4隻の艦隊を率いて浦賀に入港。長崎へ回航せよとの幕府の申し出を無視して江戸湾に侵入。警備の彦根藩士が見守る中、湾内を自由に巡航し、時折、号砲を轟かせた。これは、幕府のみならず、日本中が太平の眠りから覚める恐怖となった。
幕府の使者がとりつぎ、ペリーはフィルモア大統領の親書を手渡すと、翌年再訪することを告げ、湾内の測量をしてから去っていった。
彦根にいた直弼は穏やかではいられなかった。予想より早くペリーが退帆したため、増援部隊を派遣するまでには到らなかったが、それでも相州警護の総責任者として、再び出府しなければならない。未だ長旅の疲れの癒えていなかった直弼は慌しさの中、体調を崩してしまう。しかし、直弼は病身を押して、江戸へと舞い戻っていった。
参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・「井伊直弼」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年10月30日19:30(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直弼
・「マシュー・ペリー」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年9月20日19:40(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/マシュー・ペリー








