第18回 開国の大老~井伊直弼 其の壱~
激動の幕末を動かした大老・井伊直弼。
その表舞台で語られる姿はほんの一部にすぎない。藩主にはなることが出来ない定めを背負い、不遇の扱いの中で前向きに生きようとしていた。
安政七年(1860年)弥生三日。
上巳の節句を迎えた江戸の町は、この時期には珍しい雪模様であった。
この日。江戸城桜田門のすぐ外側で時の幕府大老が暗殺された。後に「桜田門外の変」と呼ばれるこの事件をきっかけに、幕末は一つの転換点を迎えることになる。
大老の名は井伊直弼。
13人目の彦根藩主である。
直弼は文化十二年(1815年)、先々代の藩主、井伊直中(注1)の十四男として彦根で生まれた。幼名は鉄之介、鉄三郎。
直弼はいわゆる
武家社会において、庶子にはいくつかの身の振り方があった。井伊家では跡継ぎ以外の子は、他家に養子に出るか、家臣の養子となってその家を継ぐか、出家して寺に入るのが決まりとされていた。
しかし、直弼が元服を過ぎても、その行き先が決まることは無かった。
父が藩主をしている間は、藩主の家族が生活する下屋敷・
そんな中、直弼が城を出る好機が巡ってくる。
直弼が「尾末町御屋敷」で暮らすようになってから3年。天保六年(1935年)、直弼20歳のとき。一緒に暮らす弟の直恭とともに、日向国延岡藩内藤家7万石(注4)からどちらかを養子にと声がかかったのである。直弼は弟とともに江戸へ向かった。
順番から言えば、弟より直弼に養子縁組が回ってくるのが当然であった。他国とはいえ、一国の大名家に跡継ぎとして入るわけで、これまで、庶子として後ろ指を指されることもあった窮屈な生活から脱出することができる。この時、直弼は大いに喜んだそうだ。
しかし、皮肉なことに、延岡藩は直弼よりも直恭を養子に選んだのである(注5)。直弼は失意の内に江戸を離れたといわれている。
彦根に戻った直弼が詠んだ歌がある。
「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」
自身を、生涯花の咲くことのない埋れ木と同じだと悲嘆したのだ。
しかし、直弼は、ここで自分にしか出来ない業があると思い直し、「この困窮に耐え、器を磨くべし」と住居を「
「埋木舎」時代の直弼は儒学・国学など様々なことを学び、和歌、俳句、茶、能など文化面で才能を遺憾なく発揮した。特に茶では石州流を修め、新しい一派を興すほどであった(注6)。
また、武術においても日々惜しみなく修練を重ね、剣術、槍術、柔術、居合いなどを趣味としていた(注7)。「余は一日四時間眠れば足りる」と時間を惜しんで文武習得に励んでいた。後に直弼の腹心となる
この頃の直弼は、もはや表舞台には立つ事がないという一種の諦観から開き直ったようにも見える。それは、庶子として惨めな処遇に耐えなければならなかった自分への克己であったのかもしれないし、または、自分をそのように扱った井伊家への反発であったのかもしれない。表には立つ事が無くとも、自分のできることを成し遂げようと前向きに生き抜くことを選んだのである。
ただ、やはり世間の目は冷たく、裏切られるような思いをすることも少なくなかったようである。
大きな口論をすることもあったらしく、趣味を極めるような生活は思い描くほど上手くいっていなかったのかもしれない。
「むっとして もどれば庭に 柳かな」
直弼が好んだといわれる俳人・大島
参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・「庶子」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年9月20日00:00(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/庶子
・「埋木舎」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年9月20日00:10(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/埋木舎
・「長野主膳」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年9月20日00:20(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/長野主膳








