第17回 時代の狭間~井伊直亮~
近海に何度も現れるようになった外国船。
日本が一つの国として判断を仰がれていたその時。幕府最高職の大老に就いた彦根藩主の物語。
日本近海にアメリカ・イギリス・ロシアなどの列強が姿を頻繁に現すようになっていた時代。もはや幕府や藩などといった枠組みで対していくことに陰りすら見え始めていた。それまで、近世以前の小国の集合体としてあったこの国は、少しずつ一つにまとまり始めるようになってくる。「日本」という国が200年間の鎖国を破り、世界の中でどう立ち回っていくか――その決断が迫られていた。時の大老は井伊
寛政六年(1794年)、直亮は井伊直中(注1)の三男として江戸で生まれた。幼名は弁之助。兄の直清が病弱であったため、文化九年(1812年)父の譲りを受けて藩主となった。18歳のことである。
直亮が藩主となった時代は、江戸を中心とした文化が花開いた化政時代に当たる(注2)。多くの人たちが学問や芸術・娯楽に心血を注ぎ、結果として、それらの分野が発展する礎となった。江戸時代の文化と聞いて、現代人が思い浮かべるイメージは大体この頃に大成した姿である。しかし、それはあくまでも、一部の限られた人たちにとっての文化でしかなかった。地方に目を向ければ、繰り返す飢饉に安定しない政情、高利貸しを狙った打ちこわしや伊勢神宮へのお蔭参りが流行するなど、不穏な空気は日に日に色濃くなっていたことに変わりはなかった。
天保六年(1835年)、直亮は請により大老職に挙げられる。内憂外患という困難な時代、幕府により白羽の矢が立てられたのが井伊家であった。特に、異国船が頻繁に出現するようになり、先年のフェートン号事件のように傍若な振舞を許してしまったことなどから(注3)、幕府は外国を脅威と考え、文政三年(1825年)に「異国船打ち払い令(注4)」を出したばかりの緊迫した情勢での推挙であった。
直亮が大老となって1年半後、天保八年(1837年)。日本近世史のターニングポイントともいわれる大きな事件が起こる。
日本人漂流民を乗せたアメリカの商船モリソン号が浦賀に来航。漂流民を渡そうとしたが、異国船打ち払い令により時の浦賀奉行が砲撃を加えて追い返してしまった。その後、モリソン号は薩摩藩にも立ち寄ろうとするが、ここでも砲火という手痛い歓迎を受け、日本人漂流民を乗せたまま去っていってしまった。
後に「モリソン号事件」と呼ばれるこの出来事は、交渉もなく砲撃に出た幕府への批判と列強を呼び寄せる口実となり(注5)、政治への不信が強くなっていくきっかけとなった。
時の大老がこの出来事についてどこまで詳細に関与していたかは判然としない。だが、おそらくは直亮の耳にも届いていたはずである。幕府内部では外国との通商を認める開国派と欧米を疎ましく思う攘夷派の意見が対立するようになっていた。
直亮の姿勢はといえば、意外にも外国の文化を積極的に取り入れようとしていたようである。
天保十二年(1841年)、大老職を辞して後任を老中の水野忠邦(注6)に託した直亮は彦根藩に戻る。
藩内では洋書の購入や蘭学者の登用を推奨した。これは「世界の中で日本のおかれている状況を鑑みるに、余りに出遅れている。それは数百年間も列島の中に閉じこもってきた無知からくるものだ。まずは、先進の知識を知ることから始めなければ」という、直亮の強い意志があったためといわれている。
この考えは、保守的な家臣たちには受け入れられず、結果として、彼らを無視するようになったため「むつかしき殿様」と影で揶揄されていたという。
直亮は言葉よりもまずは態度で示す人だったのだろう。
その気持ちはしばらくして、家臣たちに伝わることになる。
弘化四年(1847年)、彦根藩は幕府から相模国海岸警衛を命じられる(注7)。このしばらく前、大陸では清王朝がイギリスに大敗を喫するアヘン戦争が起きており、いよいよ日本へも列強が押し寄せようとしていた。この脅威に耐え切れず、幕府は「異国船打ち払い令」を撤廃。薪水給与を認めるようになると、今度は開国通商を求める外国船がますます増えるようになった。
彦根藩が警備を命じられたのは、将軍の最も近くで外国船が出現する相模湾であった。
直亮は学んだ知識を元に、西洋式軍隊の練成に努め、列強の急な開国要求に応じたのである。
たしかに、直亮は西洋趣味であったのかもしれない。それまで日本が遅れてきた科学の分野に強く興味を持っていたようである。藩内の発明家・国友一貫斎(注8)が発明した反射望遠鏡を喜んだとか、楽器の蒐集に熱心であったとか、いろいろな逸話が残っている。
だが、直亮の目指したのは、趣味を突き詰めることではなく、この国の行く末を考えての行動だったのだ。「むつかしき殿様」といわれようとも、列強の急襲に備えていたのではないだろうか。
この時代、他藩では物騒な譲位思想が生まれようとしていた。しかし、彦根藩はそれに当てはまらない。それは、藩主の直亮が欧米列強について慎重であったからで、なおかつ、藩の財政が安定するくらいの政治手腕を見せたことに他ならない。
しかし、やがて国中が変化の潮流に巻き込まれていくようになると、ことは彦根藩だけの問題では済まなくなってくる。
嘉永三年(1850年)、井伊直亮、彦根にて没。享年57歳。遺骸は清凉寺に葬られた。
それから、僅か3年後――。
嘉永六年(1853年)、アメリカ合衆国海軍マシュー・C・ペリーがアメリカ東インド艦隊の軍艦4隻を率いて浦賀に来航。
幕末の始まりである。
参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・「化政文化」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年5月3日16:00(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/化政文化
・「フェートン号事件」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年5月3日16:10(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/フェートン号事件
・「異国船打ち払い令」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年5月3日16:20(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/異国船打ち払い令
・「モリソン号事件」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年5月3日16:30(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/モリソン号事件
・「アヘン戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年5月3日16:40(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/アヘン戦争
・「国友一貫斎」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年5月3日16:50(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/国友一貫斎








