第15回 仁憐の教え~井伊直幸~
江戸時代中期、藩主が取るべき立場と何であったか。
領民のため、最も肝要であるのは何であるのか。
それを諭すように伝える姿勢を貫いた藩主がいた。
江戸時代も中期を過ぎた頃となれば、度重なる天災や政治不信、商業重視の政策で農村から人が離れていくようになるなど、騒然とした世の中となってくる。日本各地が混沌とした状況に置かれる中、藩主には些細なことを切り捨ててでも大局的な見地から治世をおこなうか、時勢に逆行してでも領民の細かな悩みを救うか、二者択一の資質が求められていた。10人目に彦根城主となった井伊
直幸は直惟(注1)の三男として享保十六年(1731年)に彦根で生まれた。幼名は大之介、岩丸、民部などといい、後に
父が藩主であった直英にも、勿論、嫡子としての資格はあったのだが、父が亡くなったときにはまだ五歳と年端も行かなく、その資格は叔父の直定(注3)に譲られることになった。基本的には藩主の嫡子がその跡を継ぐわけであるから、直英は一度藩主になる資格を失った形となる。ただ、叔父の直定にも相応な嫡男がいなかったため、直英の兄・直禔(注4)がその養子となった。
直英は若い頃から大志を秘めた人であったらしい。何とかして困窮した様相の彦根藩を自分の手で立て直したいという思いが強かったのではないだろうか。藩主になることを、これまでの誰よりも望んでいたような感がある。もしかすると、在任60日余りで夭折した兄の遺志を継がねばならないという使命を感じていたのかもしれない。
宝暦四年(1754年)、兄が亡くなり、元服まで満たなかった直英に代わって幕命により叔父が再び藩主となった。
一度隠居していた叔父は藩主としての激務に未練などなかったらしく、就任早々他家から養子を探しはじめた。彦根でこれを聞いた直英は大いに焦り、取り乱したという。順当にいけば嫡子のない兄の遺志を継ぐのは自分であるはずなのに、年若いというだけでその資格を再び失いかけたのである。しかし、為す術もなく、この時は家臣に諌められて開運を待つしか出来なかった。
果たして、幕府は井伊家に他家からの養子を許さず、明けて宝暦五年(1755年)、直英は叔父の養子となり、藩主となった。
藩主として、直英は領内の隅々までに気を配っている。
かといって、時勢に逆らうことを選んだわけではない。先例どおり、幕府が井伊家に課した職務はそれまで以上に勤め上げた(注6)。
宝暦十年(1760年)、将軍名代として京都に上り、時の天皇に拝謁した。天皇と相見えることなど、幕府の将軍ですら簡単にはできないことである。直英はこれを我が身至高の喜びと思ったのだろう。以降、名前を直幸と改めた。
藩主として厳しく倹約を励行しながら領民のために働いた直幸は、やがて幕府へ推挙されて大老となった。天明四年(1784年)、53歳のときである。
直幸が大老に就いていた時代、世の中混乱の底に巻き込む出来事が起こる。浅間山・岩木山の大噴火、そして冷害・多雨がもたらした天明の大飢饉である。
全国で数万人の餓死者を出したといわれる未曾有の天災後、それに伴って米価が高騰、地方では百姓一揆が起こり、江戸・大坂の都市部では米屋をねらった打ち壊しが頻発するようになる。農村から人は離れる一方で荒廃し、そこに疫病が蔓延した。数年間に及ぶこの事態の犠牲者は30万人以上とも言われる。
しかし、その中にあって、彦根藩では一人の餓孚者も出さなかったといわれている。
当時、江戸にいた直幸の計らいで領内各所に施粥場が設けられ、藩の倉から領民に米が与えられたからである。直幸は彦根を離れても領民への思いは少しも変わっていなかったのだ。
直幸が大老であるときは、俗に言われる「田沼時代」である。老中・田沼
よく、直幸を指して、田沼に賄賂を積んで大老の座を手に入れた人物と評されることがある。この真偽は定かではない。
ただ、言えることは、農業より商業の発展を重んじた田沼と違って、直幸は農業こそ治国の根幹であると常々諭していたこと。元より芳しくなかった藩財政であるにも関わらず、領民の危機には倉を開けることを厭わなかったのは、紛れもない事実であるということだ。
直幸に関するこんなエピソードがある。
直幸が大老として江戸にいる間、彦根藩で実質的に執政していたのは息子の
威厳漂う父と違って、直富は温厚な人柄であったらしい。しかし、父の意思を最も組んでいたのもまた直富であった。
直幸が江戸にいたときの冬。彦根藩市中で大火があり、終夜鎮火せず、大きな被害を出した。直富は早速藩庫を開いて罹災者に米金を与えたところ、それが莫大な量になっても収まらなかった。家臣が「藩の財政が厳しくなっています。これは、御父上(直幸)様に許可をとってから開くべきだったのではないでしょうか」と進言したところ、温厚な直富は激怒して「江戸にいる父上に許可を取っている間に被害者が増えることくらいわからないのか。そんなことになった方が父上もお怒りになるはずだ。領民を救うことが先決と言われるに決まっている」と言い放ったという。
直幸の意思がどのようなものであったか、この言葉から全て伝わってくるようだ。
父・直幸と同じく領民のためを思った直富は、ゆくゆくは名君として歴史に名を刻まれたのであろうが、藩主に就く前に若くしてこの世を去ってしまう。故に、歴代城主には数えられていない。
直幸が目指したのは、領民の細かな思いまで聞き届け、大局も見誤らない姿であった。直幸が残した古文書には「仁憐」という言葉が繰り返し登場する。おもいやることのできる心という意味である。一部の者たちだけが他人の迷惑を顧みず、私利私欲に走る風潮を嫌い、須らく領民のための藩政を貫こうとしていたのだ。
天明七年(1787年)、大老職を辞すも、幕府からの特命を受けてしばらくの間、政務に参決する。寛政元年(1789年)に病を患い、江戸にて没。
享年59歳。謚号は大魏院弥高文山。世田谷の豪徳寺に葬られた。
その後、日本の近世は折り返しを向かえ、一層混迷の色を濃くしていくことになる。
参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・「天明の大飢饉」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年3月19日22:45 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/天明の大飢饉
・「田沼意次」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2006年3月19日 23:00 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/田沼意次
・「田沼時代」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2006年3月19日 23:05 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/田沼時代








