第14回 続ける血筋~井伊直禔~
長命であれば歴史に名を刻んだであろう城主。
僅か60日余りのその在任は、井伊家を守ろうとする時代に翻弄されながら濃く語られる姿であった。
城主の座というのは、なろうと努力して得られるものではない。基本的には長男が跡を継ぐのだが、長男が夭折したため弟や親戚に順番が回されたり、男児がいないことで他家から養子を入れたりする。中には器量不足な城主や内紛・天災などが原因で藩が荒廃し、幕府によってお家取り潰しの上、全く地縁のない大名が新しく城主として据え置かれる場合もある。250年間続いた江戸時代において、全く城主一族が替わらない方が珍しい。
その点、彦根藩は特別であったのだろう。井伊直政が近江国を拝領して以来、幕末までずっとその血統が保たれている。これは異例と換言してもいい。彦根藩中だけが他藩に比べて安定していたわけではない。ご多聞に洩れず何度も危機に遭っている。それでも直政の血筋が続けられたのは、偏に家康以来の幕命であり、幕府の意地のようなものであった。
ただでさえ、日本中が不安定な世相に飲み込まれていた江戸時代中期。多くの彦根城主がそうであったのと同じく、9人目の城主を継がざるを得なかった井伊
直禔が江戸藩邸で生まれたのは享保十二年(1727年)9月。父は
宝暦四年(1754年)6月。先代、直定が病気を理由に幕府に隠居を申し出たのが受理された(注2)。直定には直賢という嫡男がいたのだが、彼はまだ幼かったため家督を継ぐことが認められなかった。そこで直定が次代として白羽の矢を立てたのが自分にとって甥にあたる直禔である。これも井伊家の血統を彦根で守らなければならないという幕府の計らいであった。直定は「直禔なら健康であるし、城主として申し分ないだろう」と判断したのだ。養子として迎え入れられてからすぐに直定は隠居。叔父の跡を継いで直禔が城主となった。28歳の出来事であった。
直禔が城主を継ぐのは急な出来事であったようだ。嫡男でなく甥にその座が譲られたことはおそらく家中でも幾ばくかの物議を呼んだ。直禔の人格を見定めようとした風潮があったようである。
城主であるなら威風堂々と構え、上から厳しく物言いをするのが常である。そのような風潮など弾き飛ばしてしまえばいい。実際、歴代の彦根藩主もそれを踏襲してきた。しかし、直禔は少し違った。
直禔という人は、家臣団以下の意見をまずよく聞くことを第一としていた。トップダウン一辺倒な城主でなく、民意を尊重する姿勢を目指したのである。
家督を継いだ時、江戸藩邸から直禔が彦根家中へ施政の方針を示している古文書がある。
その中で直禔は「先代・直定公がご病気のためご隠居せざるを得なかったのは本当に残念なことです」と前置きをした上で今後の彦根藩が取り組んで欲しいことを列挙している。これまで幕府や藩から出された法令を守ること。倹約に励み、武芸、家芸を守り立てること等々(注3)。
そして何度も繰り返されるのが「何か問題があったら、私のところか側役まで相談しなさい。恐縮することはない。相談しないまま有耶無耶になってしまうことの方がよくない。私は皆の意見を聞くことを決して厭わない」というような文面である。
これは他の城主にはあまり見られない。
直禔は厳しく命令を下すだけでは誰もついてこないことを知っていたのであろう。同じ書面には「私も政治について完全に明るいというわけではない。間違いだってあるだろう。その都度、きちんと意見を言ってほしい。そこから考えていきたいのだ」とも書いてある。
彦根藩でも直禔の実直で真摯な姿勢に感銘し、尊敬の眼差しをもって迎えることとなったのであった。
このまま直禔が施政を行えば、彼は紛れもなく名君として歴史に名を刻んだのだろう。
しかし、歴史はそれを許さなかった。
正式に藩主となってすぐ、これから頑張ろうと意気込んでいた矢先に、直禔は病に倒れるのである。
それはひどく体調を損ねるものであった。
心労がたたったのか、流行り病にやられたのか、それは判然としない。直禔は身体を動かすこともままならず、床に伏せてしまった。
藩主としての意気込みを家中に送った2ヵ月後。直禔はもう一度家中に書面を送っている。そこには「病気で伏せってしまって、藩政が満足に出来ない。このままではよくないので私は隠居し、次の代に託そうと思うが、私には子がいない。養子として御用番の松平武元殿を迎えたいと思う」と書かれてあった。
これが他藩であるなら、その願いは幕府に聞き届けられたのだろう。しかし、直禔は井伊家である。たとえ養子といえども、他の血筋が入り込めない幕府の意地がある。
結果、幕府は養子を認めず、代わりに先代・直定が未だ存命であるので、次代が育つまでの再任が命じられた(注4)。
直禔はこの決定に安堵したようである。先ほどの書面を出した2日後にまた新たな書面を家中に送り、「直定公が再任なさることになり、安心して養生せよとお達しがあった。井伊家の家柄をご贔屓に取り計らってくれた上意は冥加至極である。その上、安心して養生せよとまで言われて有りがたく思っている」と述べている。
遠く江戸藩邸にいて、よほど彦根藩のことが気になって仕方なかったのだろう。そこでようやく気が緩んだのかもしれない。
その手紙を彦根に送った翌日。宝暦四年8月29日。直禔は江戸で息を引き取る。
城主に在任してから僅か60日余りしか経っていなかった。
法号は見性院観刹了因。井伊家縁の世田谷豪徳寺に葬られている。
参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年








