列伝〜井伊家十四代〜

第13回 模範の鑑~井伊直定~

歴代の城主の内最も巨躯で、直興の子としては一番の長寿。
自らが先に立って藩主かくあるべしと範を示したその姿は、近世中期の鑑のようであった。

直定は四代・直興の息子の内、最後に城主となった人である。
直興の子らはほとんどが短命であったとは先々から述べてきたが、故に、直系の孫が生まれることも稀であったのだろう。相続権は順々と下の弟たちへ送られながら、次代を担う嫡男が育つのを待ち望んでいた。

直定が彦根で生まれたのは元禄十五年(1702年)2月13日。幼名を又五郎といった。兄の直惟が生まれてから二年後で父・直興の十四男である。ただし、女子を含めると直惟が22番目で直定が30番目であるから、兄が生まれてから2年の間に7人も女子が生まれていることになる。父はなんとか健康な子が生まれることを願っていた。
最後になってその願いが叶ったのか、直定は兄弟たちの仲では最も長生きしている。

直定が城主の座に就いたのは、長じてからかなり後である。やはり、他の兄たちと同じく、直定自身もよもや一城の主としての任が自分に回ってこようとは露ほども思っていなかったに違いない。
正徳三年(1713年)。11歳のとき、直定は従五位下因幡守を叙任し1万石を与えられる。本来ならばそれで終わっているはずであるのだが、享保十九年(1734年)に兄で当時の彦根城主直惟の懇願によりその嗣となり、翌年、正式に藩主を継いだ(注1)。直定、時に33歳であった。20歳代で亡くなる兄弟が多い中、この年齢であることがすでに異例の長寿であったのかもしれない。

確かに、直定はがっしりとした体躯であったらしい。井伊家歴代の赤備え具足が最も大きいことからもそれがわかる。ただし、須らく健康であったかどうかは甚だ疑問である。藩財政が圧迫されるなか、質素倹約を徹底し、藩士の禄を半減させざるを得なくなると自身も一汁一菜の粗食に転じてそれを遵守し続けた。魚を食べるのは1日と15日の月に2回と決めていたというから、十分な栄養が取れていたとは思えない。直定も、兄たちと同じく病弱ではあったのだ。幸運にも生きていることが出来たというほうが正しいのかもしれない。時代全てが困窮していた。

直定の人となりは、実直で威儀厳然としていたという。
幕府の奏者番そうじゃばん(注2)を務めたこともあり、規律を守ることを旨として自ら率先してそれを実践していた。それは、自国の領民たちが逼迫した生活を送っているのに、大名だけが贅沢はできないという強い意志の現れであった。
こんなエピソードがある。
直定は江戸城内にも常に握り飯弁当で、他の大名たちの贅美を尽くした食事を嘲っていた。井伊家はこれまで数人の大老を輩出してきた幕府でも重要な家柄である。その頭首が粗食であることを陰で笑う諸大名は多かっただろうが、直定は意に介することもなく城主としての範を示して見せたのである。
また、他の大名が珊瑚を珍重し自慢しているところへ、「我が庭にある草の実より採れた珊瑚也」と藜蘆りろの実(注3)を送るなど、大名が奢侈に驕る風潮を戒めている。

厳しく真面目すぎるほどの直定であったが、けして融通が利かない堅物であったというわけではない。家臣のことをよく気にかけ、よりよい藩政を目指していた。
ある日のことである。
直定は槻御殿から望遠鏡で大洞弁財天の辺りを見ていた。大洞の茶店では酔って暴れてそのまま船に乗って内湖を渡ってこようとする藩士の姿があった。
直定はこれに気付かぬ振りをしつつ、側にいた近侍の家臣たちに望遠鏡をよく覗いてみるように勧めた。 困ったのは家臣たちである。ここで酔った藩士の名を挙げれば、後で必ずきつい罰が下されるであろう。告げ口をしたことで余計な不穏は招きたくないと、景色の絶景ばかりを褒めて藩士については触れなかった。
その近侍の中に加田某という人物がいた。この人だけは違う思いであったらしく、「あそこで酔っているのは誰それである」と得意満面で直定に報告した。
近侍の家臣たちは肝を冷やした。藩政とは城主だけがワンマンで執り行うわけにはいかない。ここで密告したとこが知れ渡れば、現在の安定した政治にも影響がでるはずである。自分たちにも累が及ぶかもしれない。
しかし、直定は加田某の言葉を聞かなかったかのように座を立った。その際、小声で「(加田某は)大名の傍には置いておく人材ではないな」と零したという。
直定は、近侍の家臣たちを試したのである。大局的な藩政を省みず、自身の出世だけで同僚を密告することを恥じたのだ。

将軍家重の子・家治が元服する際、直定は将軍に代わって日光に代参して加冠の役を勤め上げるなど大きな仕事もこなすが、生来の病弱は相変わらずで、長く城主を続けられないという自覚があったようである。しかし、子の直賢なおかたがまだ幼いので、兄の子の直禔なおよしを嗣子として次代を託すこととなった。
宝暦四年(1754年)、彦根に帰ろうとした矢先のことである。藩主を継いだばかりの直禔が在任60日で死去し、彦根に帰ることができなくなってしまった。他には跡を継げる年齢の子どもはいない。
直定は伊達遠江守村候むらどきの弟、伊織を養子に迎えて跡を継がせようと幕府に願い出るが、直政以来の血筋を変えることになると許されず、次の嫡男が育つまで直定が再勤するように命じられることになった。
これが他藩のことであれば、養子を他所から迎えることも容易かったのだろう。彦根藩で井伊家であるからこそ、直定は病身をおして二度目の藩主を務めなければならなかった。
しかし、直定の身体は藩主の激務を続けられるほど、もはや若くはなかった。
同年、同じく兄・直惟の子である直幸なおひでを嗣子とし、その翌年に家督を継がせてそそくさと彦根に帰ってしまう。名を大監物だいけんぶつ(注4)と改めて養生に努めるも、さらに翌年の宝暦六年(1756年)に五十九歳の生涯を終えた。

大柄で生真面目。おそらく、威圧的な雰囲気を醸し出しながら諸大名の範であろうとした直定の姿は、先ごろまで頻発した大きな天災もなく、上昇はせずとも安定した世相の鑑であったといえる。
謚号は天祥院泰山定公。その遺骨は市内の清涼寺に葬られている。

(注1) 列伝第12回参照
(注2) 城中における武家の礼式を管理する役職。
(注3) 「れいろ」とも。シュロという植物の仲間。
(注4) 元は宮中の役職の一つで、倉庫の鍵などを管理するものだった。後に武家が名前として使うようになる。

参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年

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彦根城にまつわる「列伝」へようこそ。
時代を創造してきた様々な先人たちの視座を振り返り、歴史を紐解いていきます。過去と現在をつなぐミッシング・リンクを浮き彫りにすることで、より鮮明な彦根城の姿を描くことができるようになるでしょう。
これは精緻な歴史年表ではありません。彦根城を象る物語なのです。

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