列伝〜井伊家十四代〜

第12回 故郷への遺志~井伊直惟~

激しい気性の持ち主である反面、文化面での功績も多く遺した8代目の城主。
混迷する世相の中で藩政に活力をもたらせようとする姿には、故郷に対する強い想いがあった。

父親の直該なおもり(直興)が2度目の藩主となったとき、直惟なおのぶは僅か十一歳であった。幼名を金蔵という。3代目城主・直澄以来の彦根生まれである。直興の22番目の子として誕生したのだが、兄たちが矢継ぎ早に世を去っていく中で、幼い頃から城主としての運命を背負っていた。

正徳四年(1714年)。金蔵が十五歳になるのを待ちかねたように、幕府で大老を務めていた父・直該が隠居。金蔵はその跡を継ぎ、直惟と名を改めて8代目の藩主の座に着いた。翌年には十六歳の若さで、日光で行われた徳川家康百回法要に将軍・家継の名代として代参する大任をこなしている。(注1)
世相は、ちょうど華美な文化の後にやってくる低迷の時代である。大きな飢饉と政治不信が沸き起こる中、直惟は彦根藩に活気をもたらそうと力を振るうことになる。

直惟は苛烈な性格であったらしい。
様々なことに積極果敢に取り組み、藩政の安定に心血を注いだ。
同じく気性の荒かった祖先の直政や直孝を範としていたのかもしれない。彦根生まれであるということで、より郷土へ馳せる思いも人一倍強かったのだろう。
このように述べれば、それまでの兄たちが穏やかな藩主であったのに、直惟だけが急に激しい気性を持ち得たように思われるが、それは少し違う。直惟もまた、兄たちと同じく病気がちであった。実際のところ、直惟も真摯に藩政と向き合っていただけではなかったのだろうか。兄たちの時代と違い、激しくなければ領民を牽引していけないくらい世の中が疲弊していたのである。
幕府中興の英主・8代将軍吉宗の享保の改革と同じ時代である。改革は必要に迫られて行われる。数年間、将軍自らが断行しなければならないほど、世の中は不安定になっていたのである。質素倹約・武芸奨励が推し進められ、文治的に偏っていた政治を幕初の武断的に戻すような形で威風再興が努められていた。彦根においてもそれは例外ではなく、直惟によりそれに応じた法令がしばしば出されている。(注2)

激しい気性は、その趣味にもよく現れている。
直惟は鷹狩りをよく好んでいたらしい。
歴代の彦根藩主の中で最も狩猟を好んだ城主と言われており、大規模な鷹狩りを何度も行っている。これも武芸奨励の一環であり、領内に足しげく通い現状を具に見ようとする市井だったのだろう。彦根藩領内にはその度に鷹狩り場が整備された。(注3)

また、直惟は一面では絵画や詩文に巧みでもあり、多くの作品を残している。自作品以外にも伝統や文化を重んじることを心掛けていたようで、永源寺の能舞台(注4)、湯谷神社の手水鉢(注5)などは直惟の寄進であると伝えられている。遠祖・井伊共保に縁の井伊谷神社の神域補修事業を行ってもいる。
歴史に名を残すということは、古文書に残る法令を多く発布した政治上手な人物を指すだけではない。現在まで伝わる有形無形に残される遺業というものもある。
そういった意味では、直惟は近江国の歴史に深く名を刻んでいるといえるだろう。
後世になって、その姿が再現されることもある。
坂田神明神社の「蹴り奴振り」という伝統的な行列祭がある(注6)。足を跳ね上げる所作が特徴の伝統文化であるが、その由来には直惟が欠かせない。神明神社は享保十八年(1733年)に直惟が造営したといわれている。その大名行列の様子を模したのがこの奴振りであり、春祭りの際に奉納されている。
彦根城石垣の改修など、今も残る建築事業の多くは直惟が行ったものが多い。そういった面から藩政を律しようとしていたようである。
直惟は、例えば直政や直孝のような、華々しく語られる活躍はしていないのかもしれない。しかし、現在の彦根を象るものは直惟抜きには語ることが出来ないものが多く含まれていることもまた事実である。

享保の改革に準じて行った直惟の藩政であったが、その厳しい執政は病弱な身体を確実に蝕んでもいた。
事実、直惟自身は藩主の座についてから11年目。将軍・吉宗の子である家重が元服する際、先例通り加冠の任を命じられるが、病身を理由に一度は断ろうとしている。(注7)

直惟の藩政は、中興とまでは言われぬものの、悪化させることはなかった。しかし、防ぎきれない天運というものがある。
享保十七年(1732年)、西日本を中心に記録的な冷夏が襲った。梅雨が明けぬまま夏まで雨が降り続き、作物は育たず害虫が大量に発生した。大量の餓死者を出す空前の天災であった。
江戸四大飢饉のひとつ、享保の大飢饉である。(注8)
これが直惟に直接堪えたのかどうかは判然としない。
ただ、これから僅か二年後。直惟は弟の直定に跡を継がせたいと幕府に懇願し、江戸を去っている。病気の治癒が理由であった。

養生に努めたものの、更に二年後――。
元文元年(1736年)、生まれ故郷の彦根にて永眠する。37年間の生涯であった。これは62歳まで生きた父・直興と比べずとも、若すぎる死であった。

後世に数多くの足跡を遺した直惟は、直政と同じ彦根清涼寺に葬られ、今も故郷の土地を見守っている。

(注1)これは、時の将軍・徳川家継が7歳とかなり幼かったためであると思われる。将軍として政治を行う年齢ではなく、側用人たちが変わりに執政していた。将軍より幾分か年齢も上で、徳川家からの信頼も篤い直惟に白羽の矢が立てられたのだろう。ちなみに、将軍・家継は9歳で早世し、跡継ぎがいなかったため御三家から吉宗が呼ばれることになる。
(注2)享保元年に出された振舞の法度、及び徒党立致すまじき事にはじまる十一ヵ条など。また、享保の改革で取り入れられた上米も彦根藩から幕府に献上されている。
(注3)坂田郡丹生山(米原市)や犬上郡正法寺山・平田山(彦根市)など。愛知郡(愛荘町)や神崎郡(東近江市)などでもしばしば行われた。
(注4)東近江市永源寺高野町にある臨済宗永源寺派総本山
(注5)米原市米原。伝統的な曳山が伝わっている。
(注6)米原市宇賀野。「元伊勢」とも呼ばれる天照大神を祀る神社。
(注7)このときは幕府に許されなかったため実現していない。
(注8)被害は西日本諸藩のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は僅か27%弱の63万石程度であった。餓死者12,000人にも達した。また、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。

参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・「享保の大飢饉」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年1月16日 19:00 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/享保の大飢饉

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これは精緻な歴史年表ではありません。彦根城を象る物語なのです。

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