第11回 混迷の世相へ~井伊直恒~
僅か50日しか在任出来なかった城主がいた。
残された資料も少なく、多く語られることの無いその背後で時代が変容しようとしていた。
江戸時代、上方を中心に絢爛な文化が花開いた元禄時代を終える頃になると、やがて世相は混迷の様相を呈してくるようになる。全国的な大飢饉や政治への不安が蔓延してくるのである。それを思えばこの時期、彦根城の城主が度々替わっているのも、驚くべきことではないのかもしれない。
しかし、それでも、在任が僅か50日にも満たなかった藩主がいたということには唖然とさせられる。
前述もしたが、四代目城主直興の子はほとんどが夭折している。(注1)直興が最も懸念していたのは、跡継ぎのことではなかったのだろうか。
徳川四天王を勤めた直政以来、井伊家は幕府の庇護の下にあった。特別扱いを受けていたというわけではないが、それでも優遇されてはいたのだと思う。そうでなければ、嫡子が元服しないまま早世するのが続く家系には、他家から養子を招くか、お家取り潰しで新しく転封して藩主を据えるか、いずれにせよ、それなりの処置がとられていたはずである。
そうならなかったのは、直政の血筋を絶やさないように配慮した幕府の力が大きく働いていたのだろう。その絶大な力ゆえ、僅か50日といえど継がなければならない宿命があったのだ。
その名は
直興の十男で、元禄六年(1693年)に江戸で生まれた。幼名は松之介、安之介。ずっと江戸で育ち、おそらくは本人もよもや城主を継ぐなどとは思ってもいなかったはずである。
元禄十六年(1703年)に元禄大地震と呼ばれる記録的な災害が関東地方を襲っている。江戸城下も8000戸が倒壊する被害であった。(注2)
宝永四年(1707年)には富士山が最後の大噴火(注3)をおこし、その火山灰は江戸に降り注いでいる。
このような状況の中、松之介は戦々恐々としながら生きていたに違いない。遠く離れた彦根のことまで気にかける余裕があったかどうか、それは甚だ疑問である。
転機は急に訪れた。
宝永七年(1710年)三月。直興の跡を継いでいた兄の直通が彦根藩家老に対し次のようなことを申し出た。
「この度、日光東照宮へ社参することになっている。もしも不慮の事が起こっても、私には子どもがいない。万が一のため、弟の主計頭(注4)が十九歳だ。これを養子として跡継ぎにしておきたい」
彦根から日光まではかなり距離があるにしても、直通が不慮の出来事まで気にしなければならなかったのは何故なのだろうか。これは推測に過ぎないのだが、体の弱かった直通は、己の道行きに何かしらの勘働きのようなものがあったのかもしれない。不吉な予言というわけではないが、この申し出からわずか4ヵ月後、直通は彦根で生涯を終えている。二十二歳の若さであった。
そして兄の遺言通り養子となり、六代目城主を継いだのが直恒であった。
その後、50日弱。
直恒もまた病に倒れ、兄よりも若くして世を去ることになる。
同年10月。江戸藩邸にて没。
謚号は円城院徳厳道隣。遺骸は曽祖父・直孝と同じ世田谷豪徳寺に葬られた。
その若すぎる死に慌てたのは彦根藩中はもとより、江戸幕府でもあった。
跡継ぎが無い井伊家は、このままでは直政の血を途絶えさせてしまうことになる。そこで担ぎ出されたのが、療養のため隠居していた父・覚翁(直興)であった。覚翁は直該と名を改め、次の息子が家督を相続できるようになるまで藩政を執ることになる。(注5)
不吉と不安が国土全体を覆い始めていた江戸中期。
直政が彦根を拝領し、その子らによって彦根城が築城されてからちょうど100年が過ぎようとしていた。
参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・「元禄大地震」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2006年12月26日 00:59 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/元禄大地震
・「宝永の大噴火」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2006年12月26日 01:02 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/宝永の大噴火








