第3回 孤高の赤鬼~井伊直政 其の弐~
次々と軍功を上げ、異例の功名を遂げる井伊直政。断絶寸前となっていた井伊家再興を成し遂げ、ますます発展していく一方で、次第に周囲から孤立していく。それでも直政には先陣を切って戦場に駆ける理由があった。
井伊直政という人は、まったくのゼロの状態から井伊家を再興した英雄である。しかし、思えば、その双肩には常に「育ててくれた人の期待」「徳川直参の旗本(注1)でないことへの引け目と嫉妬」が重く圧し掛かっていたのであろう。功を為すことでしか生き残れない動乱の世を、直政はまるで焦燥感に追い立てられるかのように駆け抜けていく。
天正十一年(1582年)。先年に元服をし、晴れて井伊家二十四代の家督を継いだ井伊直政は、松平周防守の娘で徳川家康の養女になっていた花と結婚する。元服とともに、旧・武田家臣団をはじめ、徳川家の旗本衆の一部を家臣として加えられ、石高も4万石にまで加増された。直政はこれを生みの母親に報告する(注2)。母は名門・井伊家の再興に歓喜の涙を流したという。しかし、そこで直政は育ての母である次郎法師が亡くなったことを知り、悲しみの涙を流すこととなった。おそらく、直政が自身の出世を最も報告したかった人は、幼い自分を養いながら井伊家の灯を守り続けた次郎法師であったに違いない。直政は井伊谷の龍潭寺に墓参し、先祖の前でしばらく手を合わせた。
井伊家再興が成ったといっても、戦乱が終わったわけではない。直政が故郷へ錦を飾ったのと同じ年、織田信長の跡目争いを利用した賤ヶ岳の戦い(注3)が勃発。戦いに勝利した豊臣秀吉は、信長の次男・信雄を大坂城に呼ぶが、主家を居城に呼びつけるとは何事かと信雄はこれを拒否した(註4)。そこから急激に織田家と豊臣家の仲が悪化していく。翌年(1582年)、織田信雄が徳川家康に援軍を求めたため、実質上、豊臣家対徳川家の戦乱へと発展していくこととなる。後に「小牧・長久手の戦い」として語られる戦役の始まりであった。
3月から始まった戦に、直政は赤備え隊を率いて出陣。秀吉軍2万に対して家康軍1万という劣勢の中で、直政は自身も赤一色の身ごしらえに南蛮渡来の白熊(はぐま)(注5)の毛皮を背中にまで垂らし、兜には鬼の角のような天衝(注6)をあしらったいでたちで真っ先に渦中へと切り込んでいった。長槍で敵を蹴散らしていく様子はまさに鬼神――「井伊の赤鬼」の姿であった。直政は小柄な体つきで、顔も少年のようであったというから、赤備えは威厳を示すのにもってこいであった。なにより、家康の信頼を篤くするためには目立って功をあげる必要がある。赤備えはそれにも一役かっていたのである。
戦の後半では、直政は家康軍の片翼、3千の軍勢を任せられていた。どんな戦であろうと、真っ先に仕掛けることを本懐としていた直政の働きにより秀吉軍は敗退(注7)。同年11月に講和を迎えた。
「小牧・長久手の戦い」後、家康は秀吉から再三大坂へ呼び出されていたが、身の保身を考え、それを断り続けていた。しかし、秀吉が母の大政所(おおまんどころ)と妹の朝日姫を人質として預けるという条件を出してきたため、家康は断りきれず、人質と交代で上洛した。このとき、秀吉の母と妹の警護を任されたのが直政であった。
直政は朝夕必ず大政所を訪ねては懇切に世話をしたという。敵地で心細い思いもあった大政所は直政の接し方に心を打たれ、秀吉の元に帰るときは是非道中も警護してほしいと望んだ。
このとき、井伊直政の人柄が分かるちょっとしたエピソードがある。
大坂まで母と妹を護衛してきた井伊直政に気をよくした秀吉が、自ら茶をたてて直政を労おうとしたときのことである。その茶会にかつて家康の家臣でありながら、今は秀吉に寝返った武将、石川数正が同席していた。それを見つけた直政は「先祖より仕えた主君(家康)に背いて、殿下(秀吉)に従う臆病者と同席は御免被る」と激怒しながら言い放ったのである。直政にとって、自身をここまで取り立ててくれた家康は絶対であり、それを裏切るなどということは最も唾棄すべきことであったのであろう。
そもそも、井伊家は徳川直参でないのにもかかわらず、直政はそれらを押しのけて筆頭に名を連ねるような異例の出世をしている。それは当然、周囲からの妬みや嫉みの対象となる。ひとたび足元をすくわれれば転落する世の中である。直政が家康という後ろ盾をどれほど頼りに思っていたか、それはいわずもがなであろう。直政は家康に対して、奇妙なほど実直に誠実であろうとした。それは自分だけにとどまらず、周囲にも強要するほどのものであったという。家臣にもそれは徹底して行われ、些細なミスにも刀を抜き切りかかることが多かったという。それでついた渾名が「人斬り兵部(注8)」。全ては家康に認められるためであった。
戦場では大将であるはずなのに、真っ先に切り込むため、いつも陣中の指揮は筆頭家老の木俣守勝が取っていたという。直政にとって、家康への手柄を示すのは自身でなければならなかったのだ。しかし、家臣からすれば、それは破天荒が強すぎてついていけるものではなかった。規律と統制に守られた軍であったが、心から直政に追従しようというものはあまりいなかったといわれる。筆頭家老の木俣氏でさえ、徳川直参に戻してほしいと家康に訴えていたほどである。
鬼神のごとく戦場を駆け巡った直政の生傷は絶えることがなかった。何度も軍功をあげるが、家中でのその扱いは決して厚遇されたものではなかったようである。しかし、直政は己の信じた道をすすんでいく。
孤高に、ただ、ひたすらに。
そして、戦国時代は終局を迎える。天下分け目の関ヶ原の足音がもうすぐそこまで来ていた。
其の参へ続く
参考資料:「井の国千年物語」編集委員会 編/発行『井伊氏とあゆむ 井の国千年物語』2005年








