<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
    <title>列伝 〜井伊家十四代〜</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/" />
    <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/atom.xml" />
   <id>tag:hikone-400th.jp,2008:/retsuden//7</id>
    <link rel="service.post" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7" title="列伝 〜井伊家十四代〜" />
    <updated>2008-01-10T07:59:23Z</updated>
    
    <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type  3.34</generator>
 
<entry>
    <title>第21回 最後の藩主～井伊直憲～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/21.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=974" title="第21回 最後の藩主～井伊直憲～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2007:/retsuden//7.974</id>
    
    <published>2007-12-12T08:44:42Z</published>
    <updated>2008-01-10T07:59:23Z</updated>
    
    <summary>
先代藩主暗殺をうけ、次代を継いだ藩主・井伊直憲。
時代が区切られる狭間で、近世から近代へつないだ彦根藩主最後の列伝。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺された事実<a href="#add_01">（注1）</a>は、瞬く間に江戸城内、朝廷をはじめ、日本中に広がった。世情は、佐幕か倒幕かで揺れる幕末である。佐幕の旗手であった直弼の死は、彦根藩だけでは持て余す大事であった。<br />
やがて時代は、一つの区切りを迎える。<br />
近世から近代へ。旧態から新態へ。先祖から受け継ぎ、次代へと渡す架け橋を担う人物に後の世が託された。<br />
井伊<ruby><rb>直憲</rb><rt><rp>（</rp>なおのり<rp>）</rp></rt></ruby>。<br />
彦根藩最後の藩主である。</p>
<p>
直憲は、直弼の次男として嘉永元年（1848年）に江戸で生まれた。幼名は<ruby><rb>愛麿</rb><rt><rp>（</rp>よしまろ<rp>）</rp></rt></ruby>。<br />
幕政の中心であり、「井伊の赤鬼」と恐れられた父に比べると、かなり穏やかな人柄だったようである。</p>
<p>
直憲の身辺が慌しくなるのは、元服を控えた12歳のことである。<br />
万延元年（1860年）、父・直弼が水戸浪士らによって暗殺されたという報せは、彦根城内を混乱させた。</p>
<p>
当時、大名の不慮の死は、理由の如何を問わず家名を断絶させるのが幕府の方針であった。藩主とは、一国と命運を共にする者のことである。それが謀殺されても、家名を続けさせたとなれば、幕藩体制が根幹から危うくなる。ましてや、幕政の最高責任者である大老が暗殺されたのだ。江戸城としても看過できるはずがなかった。</p>
<p>
戦々恐々としたのは、彦根城である。このままでは、藩祖・直政から続く彦根井伊家は取り潰しとなるのは必至。しかも、藩主が暗殺されたのにも拘らず、仇討ちをしないまま、只、幕府からの命令を黙って待っていたとなれば、世の笑いものとして語り継がれることになるだろう。<br />
藩主を失い、尚も、後ろ指を指されていかねばならないのなら、せめて復仇だけは果たしたい――というのが彦根藩士らほとんどの思いであった。<br />
本人たちの自白により、犯行は水戸学派の手によるものであったことはすでに彦根まで伝わっていた。このまま水戸と一戦交えるべきだという機運が高まり、一触即発の緊張が城下に伝播していた。</p>
<p>
その空気を急ぎ収めねばならなかったのは、他でもない江戸幕府であった。彦根藩は譜代大名の筆頭。対する水戸藩は徳川御三家の一つである。いわば、身内同士。京都などでは倒幕の志士たちの暗躍が激しくなってきている中、江戸城内に争いの火花を持込むわけにはいかなかった。彦根と水戸の衝突は、是が非でも回避せねばならなかった。<br />
幕府は、悲しみと怒りに湧き立つ彦根を押さえるため、異例中の異例ともいえる方策を取る。<br />
「大老は登城中に大怪我を負ったため、療養中」と発表したのである。直弼の死が公でないのならば、井伊家を潰す必要はなくなり、彦根藩の怒りも鎮まるだろうとの計らいであった。<br />
直弼の死は、こうして一時的に隠されることとなった。藩主が暗殺されたのにも関わらず、彦根藩には何の咎めも下されることはなかったのでる。<br />
このとき、新しく藩主として指名されたのが、直憲であった。しかし、この幕府の苦肉の策は、すぐに覆されることとなる。</p>
<p>
直弼が暗殺されると、当然の事ながら、反直弼派が幕政の中枢を担うようになった。これまでの直弼の為政は全て悪行であったと判じられるのに、時間はかからなかった。条約調印は詔勅を無視した大罪。安政の大獄は至上の悪行。大老は暗殺されても仕方なかった――と世間は断じるようになったのである。<br />
若い彦根藩主・直憲は、その非難を一身に背負わねばならなかった。<br />
彦根藩は歴代の役職であった京都守護職を罷免され、10万石が没収された。桜田門の変から生きて帰った家臣と直弼の側近は、直憲の命により処罰された<a href="#add_02">（注2）</a>。<br />
直憲は、一大名として、幕府の命令を遵守した。それは、藩内の家臣や領民らを守るために他ならない。依怙地になって復仇を叫ぶことは容易であったろうが、藩のため、家名のため、領民のため、あえて険しい道を選んだのだろう。<br />
彦根藩最後の藩主は、藩の行く末を史上で最も深く考えていた人物だったのである。</p>
<p>
失墜した藩の信頼回復のため、汚名を返上するため、直憲は東奔西走する。<br />
世の中は倒幕へ傾きかけている。青息吐息の江戸幕府は、それでも抗うことをやめない。<br />
文久三年（1863年）、クーデターにより薩摩藩や会津藩などの公武合体派が長州藩などの尊皇攘夷派を朝廷から追い出す<a href="#add_03">（注3）</a>と、対立は目に見えて激化。錦の御旗を手にした者が正義であると、両陣営が天皇を巡って武力衝突を繰り返すようになる。<br />
彦根藩は幕府軍の先鋒として、禁門の変<a href="#add_04">（注4）</a>、長州征伐<a href="#add_05">（注5）</a>などに参加した。この時、直憲は、藩祖・直政が先陣を切った関ヶ原の合戦での出で立ちと同じく、伝来の赤備え姿で身を固めていたと言われている。<br />
彦根藩は武功をあげ、召し上げられた10万石の内、3万石を回復するまでになったが、少し遅かったといわざるを得ない。時代の方が先に区切りをつけようとしていた。</p>
<p>
西洋式の武力を有した反幕府軍の前に、幕府は次第に劣勢を強いられるようになった。加えて、長州藩や薩摩藩が倒幕に向けての詔勅をとり、名実共に官軍と称されるようになる。幕藩体制の崩壊は、目前であった。<br />
彦根城内でも、時勢を読むべきとの声が高くなっていた。このまま、幕府軍に与していては、やがて来る新時代に於いても彦根は汚名を被るだろうと言う者と、玉砕しても藩の意地だけは貫き通すべきだと言う者の口論が後を絶たない。決断は、藩主である直憲に委ねられた。<br />
これが、他の藩主あれば、また別の決断を下したのかもしれない。直政から「徳川に従うべし」と言い遺されてから、彦根藩はそれを矜持としてきた。譲れない信念であった。<br />
しかし、この時の藩主は、直憲であった。<br />
藩の、家臣の、領民の、全てのこれからを最も深く考えた人物である。藩としてのプライドより大切な物があると直憲は判断を下すことになる。</p>
<p>
慶応四年（1868年）。直憲20歳。<br />
先年、王政復古の大号令<a href="#add_06">（注6）</a>により、670年ぶりに朝廷へ政権が戻ったことにより、官軍は倒幕へ向けて勢いを増していた。<br />
この年、新たに設立した明治新政府が旧江戸幕府勢力を一掃する戊辰戦争<a href="#add_07">（注7）</a>が勃発。<br />
井伊家は、当初、その前哨戦となる鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として参加するも、大敗<a href="#add_08">（注8）</a>。以降、官軍として立場を変え、戦っていくことになる。</p>
<p>
直憲は、その後、幕府軍の有力人物であった元・新撰組の近藤勇を拿捕するなどの功績を挙げつつ、新時代を迎える。
廃藩置県<a href="#add_09">（注9）</a>まで彦根知藩事として過ごし、後に華族令<a href="#add_10">（注10）</a>で伯爵と列せられた。</p>
<p>
時代は江戸から明治へ。長かった近世はようやく幕を閉じる。<br />
江戸時代から彦根に続いた、藩主たちの列伝もここで一区切りである。</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）<a href="/retsuden/contents/20.php">列伝第20回</a>参照。
</div>
<div id="add_02">
（注2）桜田門外の変から無傷で帰邸した7名の藩士や直弼の側近であった長野主膳などが処刑されている。
</div>
<div id="add_03">
（注3）文政の政変。八月十八日の政変ともいう。
</div>
<div id="add_04">
（注4）朝廷を追われた長州藩ら尊皇攘夷派が、再び天皇を手に入れようと挙兵。御所周辺で薩摩藩ら公武合体派と武力衝突を起こした事件。京都御苑の西門にあたる蛤御門周辺が激戦区となった。
</div>
<div id="add_05">
（注5）禁門の変で御所側に向かって長州軍が発砲したことで、朝敵とみなし、朝廷が幕府に長州征討の命を下したことに端を発する出来事。2度にわたって合戦が行われた。
</div>
<div id="add_06">
（注6）慶応3年12月9日（1868年1月3日）に朝廷（天皇）が発した、政権が天皇に移った事を宣言する政変。内容は、摂関制度（摂政・関白）、幕府を廃し、総裁、議定、参与の三職をおく、というもの。
</div>
<div id="add_07">
（注7）王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦。慶応四年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。慶応四年/明治元年 - 明治二年（1868年 - 1869年）。鳥羽・伏見の戦いをはじめ、宇都宮城の戦い・上野戦争・東北戦争（会津戦争を含む）・箱館戦争など各地が戦場となった。途中、勝海舟らの手により、江戸城が無血開城した。
</div>
<div id="add_08">
（注8）このとき、戦場には赤備えの甲冑が点々と残されていたとも言われている。
</div>
<div id="add_09">
（注9）明治四年（1871年）に、明治政府がそれまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革。先年の版籍奉還で人民と土地が天皇の下に帰属している。これにより、地方分権だった幕藩体制が中央集権の明治新政府体制へと移ることになる。
</div>
<div id="add_10">
（注10）江戸時代の身分制度である士農工商を廃止し、四民平等で始まった明治政府が設けた新しい身分制度に基づいた法令。皇族・華族・士族・平民のうちの華族は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の区別が設けられた。華族には江戸時代の大名などが任命されている。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』『下冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修　彦根市史　第六巻　資料編　近世一』彦根市2002年<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org">フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』</a><br />
・「桜田門外の変」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年12月12日18：00(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/桜田門外の変">http://ja.wikipedia.org/wiki/桜田門外の変</a><br />
・「禁門の変」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年12月12日18：10(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/禁門の変">http://ja.wikipedia.org/wiki/禁門の変</a><br />
・「戊辰戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年12月12日18：20(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/戊辰戦争">http://ja.wikipedia.org/wiki/戊辰戦争</a><br />
</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第20回 開国の大老～井伊直弼 其の参～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/20.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=966" title="第20回 開国の大老～井伊直弼 其の参～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2007:/retsuden//7.966</id>
    
    <published>2007-11-22T10:29:00Z</published>
    <updated>2007-11-23T10:01:19Z</updated>
    
    <summary>
尊皇攘夷、開国、公武合体、佐幕、倒幕……あらゆる角度から様々な思いが吹き荒れた幕末。
日本史を語る上で決して欠かすこの出来ない大老は、固い信念の下、次の時代を見据えていた。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
江戸に戻った直弼を待っていたのは、焦燥感と疑心で暗雲の立ち込めた江戸城だった。ペリー来航は、もはや諸藩や江戸城だけで片付けることの出来ない問題として日本中に波紋を広げている。開国か<ruby><rb>攘夷</rb><rt><rp>（</rp>じょうい<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_01">（注1）</a>か、250余年続いた江戸幕府は究極の2択を迫られていた。<br />
併せて、彦根藩に問われた責任も大きかった。直弼は、今や<ruby><rb>溜間</rb><rt><rp>（</rp>とどめのま<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_02">（注2）</a>詰大名の筆頭である。加えて、ペリーが来航した浦賀と応接地の久里浜<a href="#add_03">（注3）</a>は彦根藩が警備担当地区であった。<br />
安政元年（1854年）、幕府は再び来航したペリーと<ruby><rb>日米和親条約</rb><rt><rp>（</rp>にちべいわしんじょうやく<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_04">（注4）</a>を締結。下田と箱館を開港し、ここに江戸幕府の矜持であった鎖国体制は崩壊した。彦根藩は、警護地区を江戸湾近海に変更した。</p>
<p>
本来、彦根藩が務めていたのは天皇家を護る京都守護である。この頃になってくると、黒船は、江戸湾近郊に出現するのみとは限らなくなっていた。京都に近い紀伊水道や大阪湾にも頻繁に現れている。実際、事の重大さを鑑みた朝廷は、天皇による彦根<ruby><rb>遷幸</rb><rt><rp>（</rp>せんこう<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_05">（注5）</a>を真面目に検討していた。幕府は、彦根藩の海岸警備の任を解き、京都守護職に戻す。重要な場所を、地の利に通じた彦根藩に託したのであり、また、伝統の家格を回復するという直弼の悲願が叶った瞬間でもあった。<br />
しかし、時代は風雲急を告げる幕末。歓喜に割く時間などない。彦根藩が京都守護の任についた直後、京都御所が炎上。直弼は江戸城で幕政に参加しながらも、新たに禁裏御守護隊を結成して御所や公家の不安を除くことに奔走せねばならなかった。</p>
<p>
その間にも、欧米列強は手を休めることなく、不平等条約の締結を催促し続けてくる。未だ開国の準備が整っていない日本は、外からの脅威と内からの不満を抱え、一触即発の状態にあった。文字通りの内憂外患。直弼の体が休まることはなかった。<br />
安政三年（1856年）、先の条約で開港した下田のアメリカ領事館にタウンゼント・ハリス<a href="#add_06">（注6）</a>が赴任。通商条約締結を目的とした江戸出府を希望してくるようになる。<br />
外国人が江戸城に登城するなどこれまで考えられなかった事態である。この頃、江戸城内は水戸藩らの尊王攘夷派と老中・<ruby><rb>堀田正睦</rb><rt><rp>（</rp>ほったまさよし<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_07">（注7）</a>らの開国派の対立が深刻になっていた。埋木舎時代の頃から世の中を学ぶことを欠かさなかった直弼は、溜間詰となった今もそれは変わらず、諸国の情勢や『オランダ風説書』などから、国を守るためにはいち早く列強と通商貿易を開始すべきと、開国を勧めていた。<br />
徳川御三家<a href="#add_08">（注8）</a>のひとつである水戸藩と幕閣の最高責任者である老中の対立は、そのまま江戸城内を二分した。<br />
そこへハリスの江戸出府要請である。ハリスは日に日に不満を募らせた進言をしてくるようになっていた。このままでは武力行使に打って出られる可能性もある。太平を貪ってきた幕府の武力では、欧米の最新式火力には太刀打ちできないのが明らかなのは、先の黒船騒動で歴然としていた。<br />
攘夷派の中には過激な意見も飛び交うようになってきた。開国派の堀田老中といえど、それを抑えることはできないでいる。また、これほどの大事であれば、天皇の許可がなければ通らない。時の孝明天皇は公武合体<a href="#add_09">（注9）</a>で諸外国の脅威から脱しようとする攘夷派であった。当然、ハリスの思惑が叶うことなく、開国派は肩身の狭い思いをしなければならなかった。城内での立場から、その矢面に立たねばならなかったのは、他でもない直弼であった。<br />
時を同じくして将軍の跡継ぎ問題がおこる。13代将軍の徳川家定には嫡子がなく、その跡継ぎを巡って、御三家の一つである紀伊和歌山藩主・徳川<ruby><rb>慶福</rb><rt><rp>（</rp>よしとみ<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_10">（注10）</a>を擁立した南紀派と御三卿<a href="#add_11">（注11）</a>の一人・一橋<ruby><rb>慶喜</rb><rt><rp>（</rp>よしのぶ<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_12">（注12）</a>を擁する一橋派の対立となった。一橋派の中心は、水戸藩らの雄藩が占めており、以前からこれに相対していた直弼は南紀派を推した。<br />
溜間詰大名筆頭である直弼の言葉は、重大な責任を負う。そのまま国政を動かす責任となって直弼自身に重く跳ね返ってきていた。</p>
<p>
安政五年（1858年）、直弼は、同じ南紀派から挙げられて史上12人目の大老に就任する。埋木舎で自身を果敢なんでいた人物が、将軍に次ぐ国政の頂点まで上り詰めたのである。</p>
<p>
大老となった直弼が、まず取り組んだのは外交であった。<br />
アメリカ領事のハリスには、もう何度も条約調印延期を伝えて続けている。痺れを切らすのは時間の問題である。しかし、朝廷は直弼が大老になったとき、開国を勧める南紀派が勢いづいて攘夷をうたう一橋派を排斥し始めたのを面白く思っていない。南紀派から大老に挙げられた直弼に<ruby><rb>勅許</rb><rt><rp>（</rp>ちょっきょ<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_13">（注13）</a>が下るはずもなかった。刻一刻と決断を迫られる中、直弼は悩みに悩んだ。<br />
調印をしなければならないことは明白である。しかし、勅許を待たずして調印してしまえば、後に困難な事態を惹き起こすことも明白。直弼は、江戸城内が無断調印を決行すべきと盛り上がる中、最後まで勅許が降りるのを待っていた。</p>
<p>
じっくりと朝廷、幕府、諸藩の意見をまとめ、国中で一枚岩となった上で調印に臨もうとしていた直弼の目算は悲しくも実現することはなかった。<br />
アメリカのみならず、フランス、イギリス、ロシアなどの大国が江戸湾内で武力をちらつかせるようになったのである。このままでは日本が第2の阿片戦争<a href="#add_14">（注14）</a>の舞台となりかねない。<br />
直弼は、違勅の誹りを覚悟の上で、また、事後全ての責任を取ることも含めて、苦渋の決断をせねばならなかった。<br />
歴史に“もしも”は許されないが、しかし、仮に、直弼がこの時、決断を下していなければ、近代日本は世界の中で取り残されていたかもしれない。</p>
<p>
同年6月。横浜沖に碇泊中のアメリカ軍艦ポウハタン号の船上で、<ruby><rb>日米就航通商条約</rb><rt><rp>（</rp>にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_15">（注15）</a>が締結された。日本はついに、閉じていた門戸を開き、次に訪れる時代へ向けて、国を開いたのである。</p>
<p>
予想通りというか、必然というか、勅許を待たずして調印に踏み切った直弼に避難が集中した。特に、攘夷派からは完全に敵視されることになる。時の天皇をはじめ、雄藩の多くを向こうに回さざるを得なかったのを最も悔やんだのは、おそらく直弼自身だったのだろう。<br />
しかし、もはや人間一人の思惑では収拾がつかないほど世の中は騒擾し、混乱していた。</p>
<p>
孝明天皇が水戸藩に対して<ruby><rb>戊午の密勅</rb><rt><rp>（</rp>ぼごのみっちょく<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_16">（注16）</a>を下すと、江戸城内は派閥間の争いが顕著となっていった。敵味方の暗闘が繰り広げられ、大老にいたっては、城内で出されたあらゆる茶湯を口にしてはならないと言われるほど、命の危険が常に身近に潜むようになったのである。一方、京都では、政変を目論む尊王攘夷派や一橋派の大名、公卿、志士らが集まるようになってきていた。直弼が、いくら責任を一人で負うことを決していたとはいえ、それだけでは収拾するはずもなかった。佐幕か倒幕か、事態はその局面を迎えようとしていた。<br />
幕府よりの立場だった関白が尊皇攘夷派によって辞職に追い込まれると、幕府から老中自ら京都に出向いて首謀者を逮捕。これを皮切りに空前の大弾圧が始まる。後にいう「安政の大獄」である。</p>
<p>
京都でも江戸でも、逮捕され処罰される人が後を絶たなかった。「安政の大獄」で弾圧されたのは100名以上に上るといわれる<a href="#add_17">（注17）</a>。徹底した弾圧製作は多くの血を流す結果をみせた。大老はその筆頭に居なければならなかった。直弼一人が大獄の首謀者と目され、敵味方問わず、非道な仕打ちを行う「井伊の赤鬼」と揶揄し、畏れるようになっていた。<br />
直弼は、しかし、大獄を望んではいなかった。出来る限り“小獄”で終えられるよう、各方面への根回しを怠らなかったともいわれる。開国を断行したことは後悔していない。しかし、その責任があるのならばとらなければならないのも道理である。<br />
直弼は避けられない世の中の流れから目を逸らすことなく、常に次の時代を見ていたのだろう。</p>
<p>
直弼自身も、また、志士から命を狙われる存在となった。<br />
周囲からは、その身を案じ、大老を勇退してはどうかという進言もあったが、直弼は最後まで責任を果たすため、頑としてそれを拒んでいたという。</p>
<p>
「春あさみ　野中の清水氷居て　そこのこころを　くむ人ぞなき」</p>
<p>
直弼が勇退を勧められたときに詠んだといわれる一首。<br />
今は自分の政策を理解してもらえないが、もう時代は冬を越えて春を迎えている。いずれ、自分の真意を汲み取る人が出てくるだろう……。<br />
直弼は、自分の信じた道を、実直に歩む決心を固めていたのである。</p>
<p>
安政七年（1860年）。<br />
大獄は未だ続いている。<br />
志士たちが不穏な動きをしているらしいとの情報は、おそらく直弼の耳にも届いていたと思われる。だが、直弼が信念を曲げることはなかった。</p>
<p>
そして同年弥生3日。<br />
上巳の節句を迎えた江戸の町は、この季節には珍しい雪模様であった。<br />
幕府の要職に就く者は、節句の祝いを述べに登城するのがならわしである。<br />
外桜田にあった井伊家の上屋敷からは桜田門を通って城内に入るのが決まっていた。<br />
この日。<br />
江戸城桜田門のすぐ外側で、時の幕府大老が暗殺された。<br />
後に「桜田門外の変」と呼ばれるこの事件をきっかけに、大獄は沈静化し、幕末は一つの転換点を迎えることになる。
</p>
<p>
大老の名は井伊直弼。
</p>
<p>
国を開き、近代への礎石を築いた人物。<br />
13人目の彦根藩主である。
</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）江戸末期、外国との通商に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうとする排外思想。
</div>
<div id="add_02">
（注2）江戸城内で有力譜代大名らが集った場所。幕政にも影響力を持っていた。
</div>
<div id="add_03">
（注3）浦賀、久里浜ともに、現在の神奈川県横須賀市東部にある地名。
</div>
<div id="add_04">
（注4）日本の鎖国を終わらせた条約。薪水給与のための下田と箱館（後の函館）の海港・漂流民の救助、引渡し・アメリカ人居留地を下田に設定する・片務的最恵国待遇などが条約の主な内容となった。不平等条約として明治以降も日本外交にのしかかる。
</div>
<div id="add_05">
（注5）天皇が朝廷や日本の中心を移すこと。
</div>
<div id="add_06">
（注6）アメリカ合衆国の外交官。初代駐日大使。14代将軍・徳川家茂に謁見し、日米修好通商条約を締結した。日本には5年9ヶ月滞在した。
</div>
<div id="add_07">
（注7）下総国佐倉藩の第5代藩主で幕末の老中。「<ruby><rb>蘭癖</rb><rt><rp>（</rp>らんぺき<rp>）</rp></rt></ruby>」と呼ばれるほどの西洋通で、開国論者だった。同じ開国論者の直弼とも親交が深かったといわれるが、将軍後継問題で、開直弼とは相対する一橋派に属したため、後に大老となった直弼に罷免され失脚する。しかし、これは直弼にとっても苦渋の決断であったらしく、後に安政の大獄で多くの一橋派が弾圧されている中、堀田正睦だけは不問となっている。
</div>
<div id="add_08">
（注8）徳川将軍家の親戚筋にあたる家系で、将軍家と同じ徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋を使用できることが認められていた家系。尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家がある。
</div>
<div id="add_09">
（注9）江戸時代後期、公家（朝廷）の伝統的権威と武家（幕府）を結びつけて幕府権力の再構築を図ろうとした政策。孝明天皇は後に妹の<ruby><rb>和宮</rb><rt><rp>（</rp>かずのみや<rp>）</rp></rt></ruby>を14代将軍・家茂に嫁がせ、公武合体を勧めた。和宮は皇女が武家に降嫁し、関東下向した唯一の例。
</div>
<div id="add_10">
（注10）後の14代将軍・徳川<ruby><rb>家茂</rb><rt><rp>（</rp>いえもち<rp>）</rp></rt></ruby>
</div>
<div id="add_11">
（注11）江戸時代中期に分家した徳川氏の一族。8代将軍・徳川吉宗からの血筋となる。田安徳川家、清水徳川家、一橋徳川家がある。
</div>
<div id="add_12">
（注12）後の15代将軍・徳川慶喜。日本史上最後の幕府将軍となった人物。
</div>
<div id="add_13">
（注13）天皇から直接下される命令。
</div>
<div id="add_14">
（注14）清とイギリスの間で1840年から2年間起こった戦争。清国は敗戦し、強引に不平等条約を締結させられ、近代に到るまで実質上、イギリスの影響下に置かれていた。
</div>
<div id="add_15">
（注15）日本とアメリカの間で結ばれた通商条約。不平等条約の一つ。下田港を閉港し、新たに神奈川、長崎、箱館、新潟、兵庫の5港を開港すること・領事裁判権をアメリカに認めること・江戸、大阪の開市・自由貿易・片務的最恵国待遇などが決められた。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・ロシア・オランダとも結んだ（安政の五カ国条約）。
</div>
<div id="add_16">
（注16）孝明天皇が正式な手続きを経ないで、水戸藩に直接、勅書を下賜した出来事。安政の五カ国条約に対する詳細な説明と公武合体を進める旨が記してあった。幕府の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府が蔑ろにされ威信が傷つけられたということであり、安政の大獄を起こす引き金となった。
</div>
<div id="add_17">
（注17）日米修好通商条約への無断調印と将軍・家茂就任に反対する派閥に属していた尊皇攘夷派や一橋派の大名、公家、志士らが弾圧の対象とされた。吉田松陰や橋本佐内といった活動家の処刑や、水戸藩や尾張藩藩主の蟄居など大々的に行われている。「桜田門外の変」を引き起こすきっかけとなった事件であり、後に直弼の評価を「維新の志士を弾圧した大悪人」か「開国を断行して日本を救った政治家」と二分する事件の一つとなっている。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修　彦根市史　第六巻　資料編　近世一』彦根市2002年<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org">フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』</a><br />
・「井伊直弼」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年11月22日20：00(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直弼">http://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直弼</a><br />
・「タウンゼント・ハリス」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年11月22日20：10(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/タウンゼント・ハリス">http://ja.wikipedia.org/wiki/タウンゼント・ハリス</a><br />
・「安政の大獄」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年11月22日20：20(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大獄">http://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大獄</a><br />
・「桜田門外の変」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年11月22日20：30(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/桜田門外の変">http://ja.wikipedia.org/wiki/桜田門外の変</a><br />
</p>

]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第19回 開国の大老～井伊直弼 其の弐～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/19.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=933" title="第19回 開国の大老～井伊直弼 其の弐～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2007:/retsuden//7.933</id>
    
    <published>2007-10-30T10:07:10Z</published>
    <updated>2007-11-23T01:46:07Z</updated>
    
    <summary>
世子として急に表舞台に立つこととなった直弼。
同じ頃、近海には欧米列強が続いて現れ、時代は開国へ向けて速度を増していた。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
弘化三年（1846年）、藩政の表舞台に立つことも、城を出ることも叶わず、不本意の塊を抱えたまま世捨て人然とした暮らしを埋木舎で続けていた直弼に急な転換点が訪れる。<br />
兄で、藩主の直亮<a href="#add_01">（注1）</a>の子である井伊直元が急逝したという報せである。<br />
直亮には他に嫡子がなく、幕府への体面上、井伊家の血統を絶やすことが出来ない彦根藩が、次代を担う跡継ぎとして白羽の矢を立てたのが直亮と同じ先代藩主・直中<a href="#add_02">（注2）</a>の血を引く直弼であった。<br />
直弼は、兄の養子となり、正式に彦根三十万石の世子<a href="#add_03">（注3）</a>となる。同時に従四位下・侍従・<ruby><rb>玄蕃頭</rb><rt><rp>（</rp>げんばのかみ<rp>）</rp></rt></ruby>に叙位・任官。直弼30歳の冬の出来事であった。</p>
<p>
彦根藩の世子は、定府と決められていた。直弼は15年間暮らした埋木舎を出、江戸の外桜田<a href="#add_04">（注4）</a>にある彦根藩の上屋敷に移った。藩主が帰国して江戸にいない場合、代わりに<ruby><rb>溜間</rb><rt><rp>（</rp>とどめのま<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_05">（注5）</a>に出仕して幕政に参画するのが勤めとなる。直弼はこの時、内外の情勢について見識を深めていく。元来、勤勉で努力を惜しまない直弼は、欧米、中国、朝鮮、蝦夷、琉球など諸外国についての見識を深めていったといわれる。これが、後に開国へと導く礎となっていくのである。</p>
<p>
弘化三年といえば、アメリカ東インド艦隊のビッドル司令官が浦賀に軍艦を率いて来航し互市を求めたのをはじめ、フランス、デンマークなど欧米列強の黒船が頻繁に日本近海に出現していたころであり、鎖国政策に支えられてきた江戸幕府が不安に揺れ動いていた時代でもある。旧態依然としたシステムを維持していくか、未知にして負のイメージばかりが先行する新しい門戸を開放するか、選択を迫られていた。<br />
翌年、幕府は相模湾及び房総半島周辺の海岸線防衛を増強することを決める。警護に抜擢されたのが会津・川越・<ruby><rb>忍</rb><rt><rp>（</rp>おし<rp>）</rp></rt></ruby>・そして彦根の四藩だった。彦根藩が任されたのは三浦・鎌倉両郡にわたる相模湾沿岸十数里。四藩の内、もっとも警備船が長く、特に外国船渡来の要衛にあたる場所である。いわば、黒船から国を護る最前線にあたる場所であった。<br />
彦根藩は代々、京都守護を任せられた家柄である。加えて、西国三六カ国の抑えという地位にもあった。本来なら、国防の最前線に立つことは無かったはずである。<br />
よほど幕府からの信頼が篤かったのか、何かの間違いか、その役目の現場責任者となったのが、江戸にいた直弼であった。直弼自身、まさかと疑う気持ちがあったのだろう。しかし、そこで妙な言いがかりを持って危険な役目から早々に身を引こうとしなかったのは、やはり井伊家の血筋というべきである。<br />
「藩祖<a href="#add_06">（注6）</a>以来、先鋒を務めるのが井伊家の家柄なのだから、最前線に置かれるというのも相応しい。一旦、世間が驚くほどに手厚く勤めた上で、これまで通りの京都守護専任に戻ればいい」<br />
直弼は常に、時代の前を向いていた。</p>
<p>
嘉永三年（1850）年末。兄の直亮が亡くなり、直弼は正式に彦根藩主を継いだ。彦根藩主の代々に倣い<ruby><rb>掃部頭</rb><rt><rp>（</rp>かもんのかみ<rp>）</rp></rt></ruby>に遷人。そこには世を儚んだ若かりし日の姿はもう無かった。<br />
しかし、藩主になったとはいえ、不安定な幕政、迫り来る列強、藩内の政務、直弼が心休まることは無かった。特に海外情勢を知るための『オランダ風説書<a href="#add_07">（注7）</a>』では、アメリカの艦隊がいつ来日してもおかしくないことを予言している。気を抜いている間などなかった。<br />
嘉永六年（1853年）、直弼は参勤交代の決まりにより、黒船の脅威を気にしつつも、一度彦根に帰国する。途中、藩領であった佐野<a href="#add_08">（注8）</a>を巡視した後ようやく彦根城にたどり着き、旅装束を解こうとしていた矢先の話である。<br />
同年7月8日。アメリカ東インド艦隊司令長官であるマシュー・C・ペリーが旗艦「サスケハナ」を筆頭に4隻の艦隊を率いて浦賀に入港。長崎へ回航せよとの幕府の申し出を無視して江戸湾に侵入。警備の彦根藩士が見守る中、湾内を自由に巡航し、時折、号砲を轟かせた。これは、幕府のみならず、日本中が太平の眠りから覚める恐怖となった。<br />
幕府の使者がとりつぎ、ペリーはフィルモア大統領の親書を手渡すと、翌年再訪することを告げ、湾内の測量をしてから去っていった。</p>
<p>
彦根にいた直弼は穏やかではいられなかった。予想より早くペリーが退帆したため、増援部隊を派遣するまでには到らなかったが、それでも相州警護の総責任者として、再び出府しなければならない。未だ長旅の疲れの癒えていなかった直弼は慌しさの中、体調を崩してしまう。しかし、直弼は病身を押して、江戸へと舞い戻っていった。</p>
<p>
<a href="/retsuden/contents/20.php">其の参へ続く</a>
</p>
]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）<a href="/retsuden/contents/17.php">列伝第17回参照</a>。
</div>
<div id="add_02">
（注2）<a href="/retsuden/contents/16.php">列伝第16回参照</a>。
</div>
<div id="add_03">
（注3）武家の跡取りのこと。嫡子。
</div>
<div id="add_04">
（注4）現在の東京都千代田区霞が関附近。
</div>
<div id="add_05">
（注5）江戸城で名門譜代大名が詰める席。
</div>
<div id="add_06">
（注6）井伊直政のこと。ここでは、かつて関が原の合戦で、直政が先陣をきったことを言っている。<a href="/retsuden/contents/04.php">列伝第4回参照</a>。
</div>
<div id="add_07">
（注7）鎖国中、欧米で唯一の貿易国であるオランダに対し、長崎のオランダ商館長に幕府へ提出させたヨーロッパに関する情報書類。
</div>
<div id="add_08">
（注8）現在の栃木県佐野市。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修　彦根市史　第六巻　資料編　近世一』彦根市2002年<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org">フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』</a><br />
・「井伊直弼」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年10月30日19：30(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直弼">http://ja.wikipedia.org/wiki/井伊直弼</a><br />
・「マシュー・ペリー」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年9月20日19：40(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/マシュー・ペリー">http://ja.wikipedia.org/wiki/マシュー・ペリー</a><br />
</p>
]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第18回 開国の大老～井伊直弼 其の壱～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/18.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=889" title="第18回 開国の大老～井伊直弼 其の壱～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2007:/retsuden//7.889</id>
    
    <published>2007-09-19T11:31:21Z</published>
    <updated>2007-11-23T01:48:37Z</updated>
    
    <summary>
激動の幕末を動かした大老・井伊直弼。
その表舞台で語られる姿はほんの一部にすぎない。藩主にはなることが出来ない定めを背負い、不遇の扱いの中で前向きに生きようとしていた。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
安政七年（1860年）弥生三日。<br />
上巳の節句を迎えた江戸の町は、この時期には珍しい雪模様であった。<br />
この日。江戸城桜田門のすぐ外側で時の幕府大老が暗殺された。後に「桜田門外の変」と呼ばれるこの事件をきっかけに、幕末は一つの転換点を迎えることになる。<br />
大老の名は井伊直弼。<br />
13人目の彦根藩主である。</p>
<p>
直弼は文化十二年（1815年）、先々代の藩主、井伊直中<a href="#add_01">（注１）</a>の十四男として彦根で生まれた。幼名は鉄之介、鉄三郎。<br />
直弼はいわゆる<ruby><rb>庶子</rb><rt><rp>（</rp>しょし<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_02">（注2）</a>である。兄弟の内、早く生まれた者が世継ぎとなり、その他は分家をするのが通例の世の中。直弼は、5歳のときに母を、次いで17歳のときに父を亡くしている。父の跡は、兄の直亮が継いだ<a href="#add_03">（注3）</a>。家督は兄の子が継ぐことが本筋であり、直弼が藩主となる可能性はここでほぼ途絶えていた。</p>
<p>
武家社会において、庶子にはいくつかの身の振り方があった。井伊家では跡継ぎ以外の子は、他家に養子に出るか、家臣の養子となってその家を継ぐか、出家して寺に入るのが決まりとされていた。<br />
しかし、直弼が元服を過ぎても、その行き先が決まることは無かった。<br />
父が藩主をしている間は、藩主の家族が生活する下屋敷・<ruby><rb>槻御殿</rb><rt><rp>（</rp>けやきごてん<rp>）</rp></rt></ruby>で暮らしていたが、兄・直亮が藩主となると城下の控え屋敷の一つ「尾末町御屋敷」で暮らすようになった。これは藩主の正式な家族として扱われなくなったことと同義である。この屋敷は、当然、槻御殿のような立派な建物でもなく、材料も一段下の物。大名の家族の住居としてはきわめて質素で、中級藩士の住居とほぼ同格であったという。庶子であるのに城内から出ていけない身分は、いわば無駄飯食いとみなされる。大名にとってはやっかいな存在なのだ。直弼は三百俵<ruby><rb>捨て扶持</rb><rt><rp>（</rp>すてぶち<rp>）</rp></rt></ruby>という、わずかながらを与えられながら表舞台から隠されて暮らすよりほかなかった。</p>
<p>
そんな中、直弼が城を出る好機が巡ってくる。<br />
直弼が「尾末町御屋敷」で暮らすようになってから3年。天保六年（1935年）、直弼20歳のとき。一緒に暮らす弟の直恭とともに、日向国延岡藩内藤家７万石<a href="#add_04">（注4）</a>からどちらかを養子にと声がかかったのである。直弼は弟とともに江戸へ向かった。<br />
順番から言えば、弟より直弼に養子縁組が回ってくるのが当然であった。他国とはいえ、一国の大名家に跡継ぎとして入るわけで、これまで、庶子として後ろ指を指されることもあった窮屈な生活から脱出することができる。この時、直弼は大いに喜んだそうだ。<br />
しかし、皮肉なことに、延岡藩は直弼よりも直恭を養子に選んだのである<a href="#add_05">（注5）</a>。直弼は失意の内に江戸を離れたといわれている。<br />
彦根に戻った直弼が詠んだ歌がある。</p>
<p>
「世の中を　よそに見つつも　うもれ木の　埋もれておらむ　心なき身は」</p>
<p>
自身を、生涯花の咲くことのない埋れ木と同じだと悲嘆したのだ。<br />
しかし、直弼は、ここで自分にしか出来ない業があると思い直し、「この困窮に耐え、器を磨くべし」と住居を「<ruby><rb>埋木舎</rb><rt><rp>（</rp>うもれぎのや<rp>）</rp></rt></ruby>」と名付けて精進することを心に決めた。</p>
<p>
「埋木舎」時代の直弼は儒学・国学など様々なことを学び、和歌、俳句、茶、能など文化面で才能を遺憾なく発揮した。特に茶では石州流を修め、新しい一派を興すほどであった<a href="#add_06">（注6）</a>。<br />
また、武術においても日々惜しみなく修練を重ね、剣術、槍術、柔術、居合いなどを趣味としていた<a href="#add_07">（注7）</a>。「余は一日四時間眠れば足りる」と時間を惜しんで文武習得に励んでいた。後に直弼の腹心となる<ruby><rb>長野主膳</rb><rt><rp>（</rp>ながのしゅぜん<rp>）</rp></rt></ruby>と出会い、師弟となった<a href="#add_08">（注8）</a>。<br />
この頃の直弼は、もはや表舞台には立つ事がないという一種の諦観から開き直ったようにも見える。それは、庶子として惨めな処遇に耐えなければならなかった自分への克己であったのかもしれないし、または、自分をそのように扱った井伊家への反発であったのかもしれない。表には立つ事が無くとも、自分のできることを成し遂げようと前向きに生き抜くことを選んだのである。</p>
<p>
ただ、やはり世間の目は冷たく、裏切られるような思いをすることも少なくなかったようである。<br />
大きな口論をすることもあったらしく、趣味を極めるような生活は思い描くほど上手くいっていなかったのかもしれない。</p>
<p>
「むっとして　もどれば庭に　柳かな」</p>
<p>
直弼が好んだといわれる俳人・大島<ruby><rb>蓼太</rb><rt><rp>（</rp>りょうた<rp>）</rp></rt></ruby>の句である。
この世捨て人然とした直弼が、後に彦根藩主となり、やがて大老として日本史を動かす表舞台に立つことを、この時はおそらく本人もまだ知らないでいる。</p>
<p>
<a href="/retsuden/contents/19.php">其の弐へ続く</a>
</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）<a href="/retsuden/contents/16.php">列伝第16回参照</a>。
</div>
<div id="add_02">
（注2）嫡男ではない武家の男子のこと。
</div>
<div id="add_03">
（注3）<a href="/retsuden/contents/17.php">列伝第17回参照</a>。
</div>
<div id="add_04">
（注4）現在の宮崎県延岡市周辺の藩
</div>
<div id="add_05">
（注5）後に内藤政義と名を改め、藩政に尽くした。
</div>
<div id="add_06">
（注6）茶の湯に関する直弼の著書『茶湯一會集』の冒頭には、有名な「一期一会」の言葉が記されている。
</div>
<div id="add_07">
（注7）居合いの新心流から新心新流を興した。
</div>
<div id="add_08">
（注8）長野主膳の若い頃のことは詳しくは分っていないが、志賀谷（米原市）に私塾を開いていたとされる。部屋住み時代の直弼もここへ通い、長野主膳を師と仰いでいた。長野主膳は聡明な人で、国学を学び、直弼とも多く書簡や歌のやりとりをしている。やがて、直弼が藩主となると彦根藩校の国学方として取り立てられ、直弼の腹心として篤い信任を得た。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修　彦根市史　第六巻　資料編　近世一』彦根市2002年<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org">フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』</a><br />
・「庶子」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年9月20日00：00(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/化政文化">http://ja.wikipedia.org/wiki/庶子</a><br />
・「埋木舎」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年9月20日00：10(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/フェートン号事件">http://ja.wikipedia.org/wiki/埋木舎</a><br />
・「長野主膳」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年9月20日00：20(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/異国船打ち払い令">http://ja.wikipedia.org/wiki/長野主膳</a><br />
</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第17回 時代の狭間～井伊直亮～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/17.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=627" title="第17回 時代の狭間～井伊直亮～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2007:/retsuden//7.627</id>
    
    <published>2007-05-03T06:26:59Z</published>
    <updated>2007-05-11T02:05:54Z</updated>
    
    <summary>
近海に何度も現れるようになった外国船。
日本が一つの国として判断を仰がれていたその時。幕府最高職の大老に就いた彦根藩主の物語。
</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
日本近海にアメリカ・イギリス・ロシアなどの列強が姿を頻繁に現すようになっていた時代。もはや幕府や藩などといった枠組みで対していくことに陰りすら見え始めていた。それまで、近世以前の小国の集合体としてあったこの国は、少しずつ一つにまとまり始めるようになってくる。「日本」という国が200年間の鎖国を破り、世界の中でどう立ち回っていくか――その決断が迫られていた。時の大老は井伊<ruby><rb>直亮</rb><rt><rp>（</rp>なおあき<rp>）</rp></rt></ruby>。彦根藩12代目の藩主である。</p>
<p>
寛政六年（1794年）、直亮は井伊直中<a href="#add_01">（注1）</a>の三男として江戸で生まれた。幼名は弁之助。兄の直清が病弱であったため、文化九年（1812年）父の譲りを受けて藩主となった。18歳のことである。<br />
直亮が藩主となった時代は、江戸を中心とした文化が花開いた化政時代に当たる<a href="#add_02">（注2）</a>。多くの人たちが学問や芸術・娯楽に心血を注ぎ、結果として、それらの分野が発展する礎となった。江戸時代の文化と聞いて、現代人が思い浮かべるイメージは大体この頃に大成した姿である。しかし、それはあくまでも、一部の限られた人たちにとっての文化でしかなかった。地方に目を向ければ、繰り返す飢饉に安定しない政情、高利貸しを狙った打ちこわしや伊勢神宮へのお蔭参りが流行するなど、不穏な空気は日に日に色濃くなっていたことに変わりはなかった。</p>
<p>
天保六年（1835年）、直亮は請により大老職に挙げられる。内憂外患という困難な時代、幕府により白羽の矢が立てられたのが井伊家であった｡特に、異国船が頻繁に出現するようになり、先年のフェートン号事件のように傍若な振舞を許してしまったことなどから<a href="#add_03">（注3）</a>、幕府は外国を脅威と考え、文政三年（1825年）に「異国船打ち払い令<a href="#add_04">（注4）</a>」を出したばかりの緊迫した情勢での推挙であった。<br />
直亮が大老となって1年半後、天保八年（1837年）。日本近世史のターニングポイントともいわれる大きな事件が起こる。<br />
日本人漂流民を乗せたアメリカの商船モリソン号が浦賀に来航。漂流民を渡そうとしたが、異国船打ち払い令により時の浦賀奉行が砲撃を加えて追い返してしまった。その後、モリソン号は薩摩藩にも立ち寄ろうとするが、ここでも砲火という手痛い歓迎を受け、日本人漂流民を乗せたまま去っていってしまった。<br />
後に｢モリソン号事件｣と呼ばれるこの出来事は、交渉もなく砲撃に出た幕府への批判と列強を呼び寄せる口実となり<a href="#add_05">（注5）</a>、政治への不信が強くなっていくきっかけとなった。</p>
<p>
時の大老がこの出来事についてどこまで詳細に関与していたかは判然としない。だが、おそらくは直亮の耳にも届いていたはずである。幕府内部では外国との通商を認める開国派と欧米を疎ましく思う攘夷派の意見が対立するようになっていた。<br />
直亮の姿勢はといえば、意外にも外国の文化を積極的に取り入れようとしていたようである。<br />
天保十二年（1841年）、大老職を辞して後任を老中の水野忠邦<a href="#add_06">（注6）</a>に託した直亮は彦根藩に戻る。<br />
藩内では洋書の購入や蘭学者の登用を推奨した。これは「世界の中で日本のおかれている状況を鑑みるに、余りに出遅れている。それは数百年間も列島の中に閉じこもってきた無知からくるものだ。まずは、先進の知識を知ることから始めなければ」という、直亮の強い意志があったためといわれている。<br />
この考えは、保守的な家臣たちには受け入れられず、結果として、彼らを無視するようになったため「むつかしき殿様」と影で揶揄されていたという。<br />
直亮は言葉よりもまずは態度で示す人だったのだろう。<br />
その気持ちはしばらくして、家臣たちに伝わることになる。</p>
<p>
弘化四年（1847年）、彦根藩は幕府から相模国海岸警衛を命じられる<a href="#add_07">（注７）</a>。このしばらく前、大陸では清王朝がイギリスに大敗を喫するアヘン戦争が起きており、いよいよ日本へも列強が押し寄せようとしていた。この脅威に耐え切れず、幕府は「異国船打ち払い令」を撤廃。薪水給与を認めるようになると、今度は開国通商を求める外国船がますます増えるようになった。<br />
彦根藩が警備を命じられたのは、将軍の最も近くで外国船が出現する相模湾であった。<br />
直亮は学んだ知識を元に、西洋式軍隊の練成に努め、列強の急な開国要求に応じたのである。</p>
<p>
たしかに、直亮は西洋趣味であったのかもしれない。それまで日本が遅れてきた科学の分野に強く興味を持っていたようである。藩内の発明家・国友一貫斎<a href="#add_08">（注8）</a>が発明した反射望遠鏡を喜んだとか、楽器の蒐集に熱心であったとか、いろいろな逸話が残っている。<br />
だが、直亮の目指したのは、趣味を突き詰めることではなく、この国の行く末を考えての行動だったのだ。「むつかしき殿様」といわれようとも、列強の急襲に備えていたのではないだろうか。<br />
この時代、他藩では物騒な譲位思想が生まれようとしていた。しかし、彦根藩はそれに当てはまらない。それは、藩主の直亮が欧米列強について慎重であったからで、なおかつ、藩の財政が安定するくらいの政治手腕を見せたことに他ならない。</p>
<p>
しかし、やがて国中が変化の潮流に巻き込まれていくようになると、ことは彦根藩だけの問題では済まなくなってくる。<br />
嘉永三年（1850年）、井伊直亮、彦根にて没。享年57歳。遺骸は清凉寺に葬られた。<br />
それから、僅か3年後――。<br />
嘉永六年（1853年）、アメリカ合衆国海軍マシュー・C・ペリーがアメリカ東インド艦隊の軍艦4隻を率いて浦賀に来航。</p>
<p>
幕末の始まりである。</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）<a href="/retsuden/contents/16.php">列伝第16回参照</a>。
</div>
<div id="add_02">
（注2）元号でいう文化・文政時代に花開いた町人文化。江戸を中心に浮世絵や川柳など文芸が盛んに行われた。
</div>
<div id="add_03">
（注3）イギリス船フェートン号がオランダと船籍を偽って長崎に来航。港の中で人質をとり薪水給与を求めた事件。結果として、時の長崎奉行と鍋島藩家老が切腹することになった。
</div>
<div id="add_04">
（注4）外国船が来航した祭、理由の如何を問わず砲撃で打ち払えという法令。「無二念打ち払い令」とも。
</div>
<div id="add_05">
（注5）幕府の政策を批判した洋学者・渡辺崋山や高野長英らが逮捕されるという「蛮社の獄」と呼ばれる事件も引き起こした。幕府への批判は高まっていく一方だったようである。
</div>
<div id="add_06">
（注6）江戸時代三代改革の内の一つ、天保の改革を行った人物。幕政の建て直しを計った。
</div>
<div id="add_07">
（注7）現在の神奈川県相模湾沿岸に当たる。
</div>
<div id="add_08">
（注8）本名・国友藤兵衛。現在の長浜市国友町出身。元は彦根藩内で代々鉄砲鍛冶を生業とする跡取り。自作の天体望遠鏡で太陽の黒点を観察し、懐中筆や気砲など様々な発明品を残した。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修　彦根市史　第六巻　資料編　近世一』彦根市2002年<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org">フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』</a><br />
・「化政文化」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年5月3日16：00(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/化政文化">http://ja.wikipedia.org/wiki/化政文化</a><br />
・「フェートン号事件」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年5月3日16：10(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/フェートン号事件">http://ja.wikipedia.org/wiki/フェートン号事件</a><br />
・「異国船打ち払い令」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年5月3日16：20(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/異国船打ち払い令">http://ja.wikipedia.org/wiki/異国船打ち払い令</a><br />
・「モリソン号事件」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年5月3日16：30(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/モリソン号事件">http://ja.wikipedia.org/wiki/モリソン号事件</a><br />
・「アヘン戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年5月3日16：40(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/アヘン戦争">http://ja.wikipedia.org/wiki/アヘン戦争</a><br />
・「国友一貫斎」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年5月3日16:50(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/国友一貫斎">http://ja.wikipedia.org/wiki/国友一貫斎</a><br />
</p>

]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第16回 激動の夜明け前～井伊直中～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/16.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=595" title="第16回 激動の夜明け前～井伊直中～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2007:/retsuden//7.595</id>
    
    <published>2007-04-13T10:15:55Z</published>
    <updated>2007-04-14T01:29:33Z</updated>
    
    <summary>
世の中が緩やかに、しかし確かに動き始めた時代。
積極的に領内に関わり、現代まで伝わる遺構を残した藩主がいた。
</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
いわゆる幕末とは、激動の時代であったと語られる。佐幕派・開国派、尊王攘夷、欧米列強との不平等条約――。様々な思惑が入り混じって、文字通り時代を激しく揺り動かしていた。当然のことながら、その動きは幕末になって唐突に発生したわけではない。歴史の中で少しずつ積み重ねられてきたものが、少しずつ緩やかに動き出した結果である。<br />
世の中が激しさを増す少し前。新しい時代に向けて徐々に動き始めていた江戸時代後期。井伊直中が藩政を執ったのはそんな時代であった。</p>
<p>
直中が江戸で生まれたのは明和三年（1766年）のことである。直幸の七男で、幼名を庭五郎といった。<br />
父・直幸は幕府大老としての任に就き、彦根藩の執政はもっぱら直中の兄である直富に任されていた<a href="#add_01">（注1）</a>。直富は領民のことを思いやる人柄で、誰もが時期城主に相応しい器と認めていたが、彦根在国中に病に倒れ25歳の若さで早逝してしまう。その結果、直中に嗣子としての白羽の矢が立てられることになった。天明七年（1787年）のことである。</p>
<p>
寛政元年（1789年）、直中は亡くなった父の跡を襲って藩主となった。<br />
寛政という年号が示すとおり、世の中は江戸時代三大改革の一つといわれる、老中・松平定信の「寛政の改革」只中である。それまでの重商主義的な政治を改め、徹底した倹約が勧められていた<a href="#add_02">（注2）</a>。直中もこれに倣い、藩内を厳しく引き締めていく。<br />
父・直幸の遺金として領民に金を与え、家臣たちには徹底した倹約を勧めた。町会所を設けて消防の制を強め、新田開発を進めるなど、藩の力を回復させることが直中の第一に捉える事であったのだろう。</p>
<p>
直中自身は文武両道に長けた人で、特に鉄砲に関しては米村流の奥義を極めて「一貫流」という流派を興すまでであったといわれている。</p>
<p>
ところで、直中といえば、現代にも当時の面影を色濃く残しているものを二つ作っていることに触れなければならない。稽古館の創立と天寧寺の建立である。<br />
稽古館は寛政十一年（1799年）に建てられた彦根の藩校である<a href="#add_03">（注3）</a>。算術や天文学などの学問から砲術などの訓練まで、藩士の教育がここで行われた。当時一流の教育機関であったらしく、諸藩から視察が訪れている。やがて弘道館と名を変え、彦根藩士の高い学力の支えとなった。城郭の中に立てられた建物一部が、現在も金亀会館として残されている。<br />
天寧寺は彦根五百羅漢の寺として有名である<a href="#add_04">（注4）</a>。腰元が不義の子を身ごもったと知った直中が怒りこれをを罰した。しかし、後になってその相手が自分の息子であったことを知った直中はひどく悲しみ、腰元と孫の菩提を弔うために天寧寺を建立した。ここに祀られている五百羅漢は一体ごとに違った表情をしている。「亡き親、子供、いとしい人に会いたくば、五百羅漢にこもれ」といわれ、多くの人が足を運びその中から親しい人と似た顔を探したのだという。直中が建立したときの思いが伝説となって現代まで語り継がれているのかもしれない。<br />
その他にも、佐和山に石田三成の慰霊するために直中によって建てられた碑が現存している。</p>
<p>
文化九年（1812年）、直中は息子の直亮に藩主の座を譲って隠居し、天保二年（1831年）に彦根で死去した。享年62歳。市内の清涼寺に葬られた。</p>
<p>
直中が彦根藩主に就いていたころというのは、それまで閉じられていた風土にあった日本が徐々に開かれていた時代である。ロシアやイギリスといった列強が通商を求めて日本に開国を迫る事件が頻発しておきている<a href="#add_05">（注5）</a>。これは幕府内で大きな立場にあった井伊家にも無関心でいられない事態であった。やがて、直中の息子達がその潮流に巻き込まれていくこととなる。<br />
彦根城築城から200年。間もなく後に幕末と呼ばれる時代が始まろうとしていた。</p>
]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）<a href="/retsuden/contents/15.php">列伝第15回参照</a>。
</div>
<div id="add_02">
（注2）8代将軍・徳川吉宗の孫の松平定信が行った改革。緊縮財政と風紀取締りを徹底した。定信自身による改革の達成はならなかったが、このときの取り組みは後の江戸幕府に受け継がれることになる。
</div>
<div id="add_03">
（注3）江戸時代、諸藩が子弟を教育するために設けた学校のこと。現在の市立彦根西中学校の建つ場所が稽古館のあった場所とされる。
</div>
<div id="add_04">
（注4）現在の彦根市里根町に建立されている。
</div>
<div id="add_05">
（注5）イギリス船がオランダ商船と偽って長崎に入港し、強引に薪水給与をもとめたフェートン号事件（文化五年）やロシア軍艦の艦長を日本が拿捕したゴローニン事件（文化8年）など。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修　彦根市史　第六巻　資料編　近世一』彦根市2002年<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org">フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』</a><br />
・「寛政」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年4月13日19:40(UTC)、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/寛政">http://ja.wikipedia.org/wiki/寛政</a><br />
</p>
]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第15回 仁憐の教え～井伊直幸～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/15.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=549" title="第15回 仁憐の教え～井伊直幸～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2007:/retsuden//7.549</id>
    
    <published>2007-03-19T13:30:47Z</published>
    <updated>2007-04-13T14:21:43Z</updated>
    
    <summary>
江戸時代中期、藩主が取るべき立場と何であったか。
領民のため、最も肝要であるのは何であるのか。
それを諭すように伝える姿勢を貫いた藩主がいた。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
江戸時代も中期を過ぎた頃となれば、度重なる天災や政治不信、商業重視の政策で農村から人が離れていくようになるなど、騒然とした世の中となってくる。日本各地が混沌とした状況に置かれる中、藩主には些細なことを切り捨ててでも大局的な見地から治世をおこなうか、時勢に逆行してでも領民の細かな悩みを救うか、二者択一の資質が求められていた。10人目に彦根城主となった井伊<ruby><rb>直幸</rb><rt><rp>（</rp>なおひで<rp>）</rp></rt></ruby>においても、それは例外ではなかった。</p>
<p>
直幸は直惟<a href="#add_01">（注1）</a>の三男として享保十六年（1731年）に彦根で生まれた。幼名は大之介、岩丸、民部などといい、後に<ruby><rb>直英</rb><rt><rp>（</rp>なおひで<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_02">（注2）</a>と名を改めた。</p>
<p>
父が藩主であった直英にも、勿論、嫡子としての資格はあったのだが、父が亡くなったときにはまだ五歳と年端も行かなく、その資格は叔父の直定<a href="#add_03">（注3）</a>に譲られることになった。基本的には藩主の嫡子がその跡を継ぐわけであるから、直英は一度藩主になる資格を失った形となる。ただ、叔父の直定にも相応な嫡男がいなかったため、直英の兄・直禔<a href="#add_04">（注4）</a>がその養子となった。<br />
直英は若い頃から大志を秘めた人であったらしい。何とかして困窮した様相の彦根藩を自分の手で立て直したいという思いが強かったのではないだろうか。藩主になることを、これまでの誰よりも望んでいたような感がある。もしかすると、在任６０日余りで夭折した兄の遺志を継がねばならないという使命を感じていたのかもしれない。</p>
<p>
宝暦四年（1754年）、兄が亡くなり、元服まで満たなかった直英に代わって幕命により叔父が再び藩主となった。<br />
一度隠居していた叔父は藩主としての激務に未練などなかったらしく、就任早々他家から養子を探しはじめた。彦根でこれを聞いた直英は大いに焦り、取り乱したという。順当にいけば嫡子のない兄の遺志を継ぐのは自分であるはずなのに、年若いというだけでその資格を再び失いかけたのである。しかし、為す術もなく、この時は家臣に諌められて開運を待つしか出来なかった。<br />
果たして、幕府は井伊家に他家からの養子を許さず、明けて宝暦五年（1755年）、直英は叔父の養子となり、藩主となった。</p>
<p>
藩主として、直英は領内の隅々までに気を配っている。<ruby><rb>奢侈</rb><rt><rp>（</rp>しゃし<rp>）</rp></rt></ruby>な風潮がはびこり退廃していく城下を戒め、農村の窮乏を救おうと、触書で何度も諭している<a href="#add_05">（注5）</a>。直英が選んだのは、領民の安泰を第一に考える藩主の道であった。<br />
かといって、時勢に逆らうことを選んだわけではない。先例どおり、幕府が井伊家に課した職務はそれまで以上に勤め上げた<a href="#add_06">（注6）</a>。<br />
宝暦十年（1760年）、将軍名代として京都に上り、時の天皇に拝謁した。天皇と相見えることなど、幕府の将軍ですら簡単にはできないことである。直英はこれを我が身至高の喜びと思ったのだろう。以降、名前を直幸と改めた。</p>
<p>
藩主として厳しく倹約を励行しながら領民のために働いた直幸は、やがて幕府へ推挙されて大老となった。天明四年（1784年）、53歳のときである。</p>
<p>
直幸が大老に就いていた時代、世の中混乱の底に巻き込む出来事が起こる。浅間山・岩木山の大噴火、そして冷害・多雨がもたらした天明の大飢饉である。<br />
全国で数万人の餓死者を出したといわれる未曾有の天災後、それに伴って米価が高騰、地方では百姓一揆が起こり、江戸･大坂の都市部では米屋をねらった打ち壊しが頻発するようになる。農村から人は離れる一方で荒廃し、そこに疫病が蔓延した。数年間に及ぶこの事態の犠牲者は30万人以上とも言われる。<br />
しかし、その中にあって、彦根藩では一人の餓孚者も出さなかったといわれている。<br />
当時、江戸にいた直幸の計らいで領内各所に施粥場が設けられ、藩の倉から領民に米が与えられたからである。直幸は彦根を離れても領民への思いは少しも変わっていなかったのだ。</p>
<p>
直幸が大老であるときは、俗に言われる「田沼時代」である。老中・田沼<ruby><rb>意次</rb><rt><rp>（</rp>おきつぐ<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_07">（注7）</a>が中心となって商業を重視した政治で、貨幣というものが、良くも悪くも見直された時代であった。直幸は田沼と志を同じくしていたらしく、供に執政を行っていた。<br />
よく、直幸を指して、田沼に賄賂を積んで大老の座を手に入れた人物と評されることがある。この真偽は定かではない。<br />
ただ、言えることは、農業より商業の発展を重んじた田沼と違って、直幸は農業こそ治国の根幹であると常々諭していたこと。元より芳しくなかった藩財政であるにも関わらず、領民の危機には倉を開けることを厭わなかったのは、紛れもない事実であるということだ。</p>
<p>
直幸に関するこんなエピソードがある。<br />
直幸が大老として江戸にいる間、彦根藩で実質的に執政していたのは息子の<ruby><rb>直富</rb><rt><rp>（</rp>なおとみ<rp>）</rp></rt></ruby>であった<a href="#add_08">（注8）</a>。<br />
威厳漂う父と違って、直富は温厚な人柄であったらしい。しかし、父の意思を最も組んでいたのもまた直富であった。<br />
直幸が江戸にいたときの冬。彦根藩市中で大火があり、終夜鎮火せず、大きな被害を出した。直富は早速藩庫を開いて罹災者に米金を与えたところ、それが莫大な量になっても収まらなかった。家臣が「藩の財政が厳しくなっています。これは、御父上（直幸）様に許可をとってから開くべきだったのではないでしょうか」と進言したところ、温厚な直富は激怒して「江戸にいる父上に許可を取っている間に被害者が増えることくらいわからないのか。そんなことになった方が父上もお怒りになるはずだ。領民を救うことが先決と言われるに決まっている」と言い放ったという。<br />
直幸の意思がどのようなものであったか、この言葉から全て伝わってくるようだ。<br />
父・直幸と同じく領民のためを思った直富は、ゆくゆくは名君として歴史に名を刻まれたのであろうが、藩主に就く前に若くしてこの世を去ってしまう。故に、歴代城主には数えられていない。</p>
<p>
直幸が目指したのは、領民の細かな思いまで聞き届け、大局も見誤らない姿であった。直幸が残した古文書には「仁憐」という言葉が繰り返し登場する。おもいやることのできる心という意味である。一部の者たちだけが他人の迷惑を顧みず、私利私欲に走る風潮を嫌い、須らく領民のための藩政を貫こうとしていたのだ。</p>
<p>
天明七年（1787年）、大老職を辞すも、幕府からの特命を受けてしばらくの間、政務に参決する。寛政元年（1789年）に病を患い、江戸にて没。<br />
享年59歳。謚号は大魏院弥高文山。世田谷の豪徳寺に葬られた。</p>
<p>
その後、日本の近世は折り返しを向かえ、一層混迷の色を濃くしていくことになる。</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）列伝第12回参照。
</div>
<div id="add_02">
（注2）後述のよるが、改名するまで「直英」が正式な名前である。
</div>
<div id="add_03">
（注3）列伝第13回参照。
</div>
<div id="add_04">
（注4）列伝第14回参照。
</div>
<div id="add_05">
（注5）古文書に「農ハ国之本」、「農は国家之基ニ而是処ニ仁憐不行届候而ハ何様之政蹟も難相立事と存」などの言葉が随所に見られる。
</div>
<div id="add_06">
（注6）明和二年（1765年）には、徳川家康150回忌で将軍・家治に代わって日光代参を勤めてもいる。
</div>
<div id="add_07">
（注7）江戸時代中期の老中。将軍の信頼が篤く、矢継ぎ早に出世した。商業を奨励し、各地の開拓開発も行った。天明の飢饉に対する執政の失敗から失脚する。俗に「田沼時代」と呼ばれる一時代を築いた。一般的に、田沼を中心とした賄賂政治が横行していた政治腐敗ぶりがささやかれるが、実際にはその真偽は判然とせず、議論の余地があるとされる。
</div>
<div id="add_08">
（注8）直幸の三男。宝暦十三年（1763年）～天明七年（1787年）。享年25歳。彦根藩の領民のことを第一に考えていたらしく、病に倒れた際も、家臣が京都から呼んだ名医の診察を受けるのを断った。その後、しかたなくその名医の診察を受けるが、名医が帰るとすぐに薬を火鉢にくべて燃やしてしまった。それに驚く家臣らに「名医を呼んでくれた志はありがたいが、私が他所から呼んだ医者にかかったとあっては藩内の医者に申し訳がたたない」と言ったというエピソードがある。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修　彦根市史　第六巻　資料編　近世一』彦根市2002年<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org">フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』</a><br />
・「天明の大飢饉」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』200７年3月19日22:45 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/天明の大飢饉<br />
・「田沼意次」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2006年3月19日 23:00 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/田沼意次<br />
・「田沼時代」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2006年3月19日 23:05　(UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/田沼時代
</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第14回 続ける血筋～井伊直禔～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/14.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=485" title="第14回 続ける血筋～井伊直禔～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2007:/retsuden//7.485</id>
    
    <published>2007-03-01T00:26:16Z</published>
    <updated>2007-03-04T06:52:08Z</updated>
    
    <summary>長命であれば歴史に名を刻んだであろう城主。
僅か60日余りのその在任は、井伊家を守ろうとする時代に翻弄されながら濃く語られる姿であった。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
城主の座というのは、なろうと努力して得られるものではない。基本的には長男が跡を継ぐのだが、長男が夭折したため弟や親戚に順番が回されたり、男児がいないことで他家から養子を入れたりする。中には器量不足な城主や内紛・天災などが原因で藩が荒廃し、幕府によってお家取り潰しの上、全く地縁のない大名が新しく城主として据え置かれる場合もある。250年間続いた江戸時代において、全く城主一族が替わらない方が珍しい。<br />
その点、彦根藩は特別であったのだろう。井伊直政が近江国を拝領して以来、幕末までずっとその血統が保たれている。これは異例と換言してもいい。彦根藩中だけが他藩に比べて安定していたわけではない。ご多聞に洩れず何度も危機に遭っている。それでも直政の血筋が続けられたのは、偏に家康以来の幕命であり、幕府の意地のようなものであった。<br />
ただでさえ、日本中が不安定な世相に飲み込まれていた江戸時代中期。多くの彦根城主がそうであったのと同じく、9人目の城主を継がざるを得なかった井伊<ruby><rb>直禔</rb><rt><rp>（</rp>なおよし<rp>）</rp></rt></ruby>は数奇な運命に翻弄された一人であるのかもしれない。</p>
<p>
直禔が江戸藩邸で生まれたのは享保十二年（1727年）9月。父は<ruby><rb>直惟</rb><rt><rp>（</rp>なおのぶ<rp>）</rp></rt></ruby>。後に彦根城主となる人である<a href="#add_01">（注1）</a>。その次男として生まれ、幼名を金之助といった。</p>
<p>
宝暦四年（1754年）6月。先代、直定が病気を理由に幕府に隠居を申し出たのが受理された<a href="#add_02">（注2）</a>。直定には直賢という嫡男がいたのだが、彼はまだ幼かったため家督を継ぐことが認められなかった。そこで直定が次代として白羽の矢を立てたのが自分にとって甥にあたる直禔である。これも井伊家の血統を彦根で守らなければならないという幕府の計らいであった。直定は「直禔なら健康であるし、城主として申し分ないだろう」と判断したのだ。養子として迎え入れられてからすぐに直定は隠居。叔父の跡を継いで直禔が城主となった。28歳の出来事であった。</p>
<p>
直禔が城主を継ぐのは急な出来事であったようだ。嫡男でなく甥にその座が譲られたことはおそらく家中でも幾ばくかの物議を呼んだ。直禔の人格を見定めようとした風潮があったようである。<br />
城主であるなら威風堂々と構え、上から厳しく物言いをするのが常である。そのような風潮など弾き飛ばしてしまえばいい。実際、歴代の彦根藩主もそれを踏襲してきた。しかし、直禔は少し違った。<br />
直禔という人は、家臣団以下の意見をまずよく聞くことを第一としていた。トップダウン一辺倒な城主でなく、民意を尊重する姿勢を目指したのである。</p>
<p>
家督を継いだ時、江戸藩邸から直禔が彦根家中へ施政の方針を示している古文書がある。<br />
その中で直禔は「先代・直定公がご病気のためご隠居せざるを得なかったのは本当に残念なことです」と前置きをした上で今後の彦根藩が取り組んで欲しいことを列挙している。これまで幕府や藩から出された法令を守ること。倹約に励み、武芸、家芸を守り立てること等々<a href="#add_03">（注3）</a>。<br />
そして何度も繰り返されるのが「何か問題があったら、私のところか側役まで相談しなさい。恐縮することはない。相談しないまま有耶無耶になってしまうことの方がよくない。私は皆の意見を聞くことを決して厭わない」というような文面である。<br />
これは他の城主にはあまり見られない。<br />
直禔は厳しく命令を下すだけでは誰もついてこないことを知っていたのであろう。同じ書面には「私も政治について完全に明るいというわけではない。間違いだってあるだろう。その都度、きちんと意見を言ってほしい。そこから考えていきたいのだ」とも書いてある。<br />
彦根藩でも直禔の実直で真摯な姿勢に感銘し、尊敬の眼差しをもって迎えることとなったのであった。</p>
<p>
このまま直禔が施政を行えば、彼は紛れもなく名君として歴史に名を刻んだのだろう。<br />
しかし、歴史はそれを許さなかった。<br />
正式に藩主となってすぐ、これから頑張ろうと意気込んでいた矢先に、直禔は病に倒れるのである。</p>
<p>
それはひどく体調を損ねるものであった。<br />
心労がたたったのか、流行り病にやられたのか、それは判然としない。直禔は身体を動かすこともままならず、床に伏せてしまった。<br />
藩主としての意気込みを家中に送った2ヵ月後。直禔はもう一度家中に書面を送っている。そこには「病気で伏せってしまって、藩政が満足に出来ない。このままではよくないので私は隠居し、次の代に託そうと思うが、私には子がいない。養子として御用番の松平武元殿を迎えたいと思う」と書かれてあった。<br />
これが他藩であるなら、その願いは幕府に聞き届けられたのだろう。しかし、直禔は井伊家である。たとえ養子といえども、他の血筋が入り込めない幕府の意地がある。<br />
結果、幕府は養子を認めず、代わりに先代・直定が未だ存命であるので、次代が育つまでの再任が命じられた<a href="#add_04">（注4）</a>。<br />
直禔はこの決定に安堵したようである。先ほどの書面を出した2日後にまた新たな書面を家中に送り、「直定公が再任なさることになり、安心して養生せよとお達しがあった。井伊家の家柄をご贔屓に取り計らってくれた上意は冥加至極である。その上、安心して養生せよとまで言われて有りがたく思っている」と述べている。<br />
遠く江戸藩邸にいて、よほど彦根藩のことが気になって仕方なかったのだろう。そこでようやく気が緩んだのかもしれない。<br />
その手紙を彦根に送った翌日。宝暦四年8月29日。直禔は江戸で息を引き取る。<br />
城主に在任してから僅か60日余りしか経っていなかった。</p>
<p>
法号は見性院観刹了因。井伊家縁の世田谷豪徳寺に葬られている。</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）列伝第12回参照。
</div>
<div id="add_02">
（注2）列伝第13回参照。
</div>
<div id="add_03">
（注3）依怙贔屓することなく公平に裁判すること。上役に媚びへつらうだけの風潮を戒めること。若い才能を伸ばしてやること。火の元に気をつけることなどが列挙されている。
</div>
<div id="add_04">
（注4）幕府の中で会議が開かれ、井伊家の血筋を守るべきか話し合われた結果、養子縁組は棄却された。松平氏といえば徳川家の親戚である。にも関わらず、井伊家の血筋を続けることが第一とみなされた。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年
</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第13回 模範の鑑～井伊直定～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/13_1.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=422" title="第13回 模範の鑑～井伊直定～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2007:/retsuden//7.422</id>
    
    <published>2007-02-09T00:01:16Z</published>
    <updated>2007-02-09T00:30:23Z</updated>
    
    <summary>歴代の城主の内最も巨躯で、直興の子としては一番の長寿。
自らが先に立って藩主かくあるべしと範を示したその姿は、近世中期の鑑のようであった。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
直定は四代・直興の息子の内、最後に城主となった人である。<br />
直興の子らはほとんどが短命であったとは先々から述べてきたが、故に、直系の孫が生まれることも稀であったのだろう。相続権は順々と下の弟たちへ送られながら、次代を担う嫡男が育つのを待ち望んでいた。</p>
<p>
直定が彦根で生まれたのは元禄十五年（1702年）2月13日。幼名を又五郎といった。兄の直惟が生まれてから二年後で父・直興の十四男である。ただし、女子を含めると直惟が22番目で直定が30番目であるから、兄が生まれてから2年の間に7人も女子が生まれていることになる。父はなんとか健康な子が生まれることを願っていた。<br />
最後になってその願いが叶ったのか、直定は兄弟たちの仲では最も長生きしている。</p>
<p>
直定が城主の座に就いたのは、長じてからかなり後である。やはり、他の兄たちと同じく、直定自身もよもや一城の主としての任が自分に回ってこようとは露ほども思っていなかったに違いない。<br />
正徳三年（1713年）。11歳のとき、直定は従五位下因幡守を叙任し1万石を与えられる。本来ならばそれで終わっているはずであるのだが、享保十九年（1734年）に兄で当時の彦根城主直惟の懇願によりその嗣となり、翌年、正式に藩主を継いだ<a href="#add_01">（注1）</a>。直定、時に33歳であった。20歳代で亡くなる兄弟が多い中、この年齢であることがすでに異例の長寿であったのかもしれない。</p>
<p>
確かに、直定はがっしりとした体躯であったらしい。井伊家歴代の赤備え具足が最も大きいことからもそれがわかる。ただし、須らく健康であったかどうかは甚だ疑問である。藩財政が圧迫されるなか、質素倹約を徹底し、藩士の禄を半減させざるを得なくなると自身も一汁一菜の粗食に転じてそれを遵守し続けた。魚を食べるのは1日と15日の月に2回と決めていたというから、十分な栄養が取れていたとは思えない。直定も、兄たちと同じく病弱ではあったのだ。幸運にも生きていることが出来たというほうが正しいのかもしれない。時代全てが困窮していた。</p>
<p>
直定の人となりは、実直で威儀厳然としていたという。<br />
幕府の<ruby><rb>奏者番</rb><rt><rp>（</rp>そうじゃばん<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_02">（注2）</a>を務めたこともあり、規律を守ることを旨として自ら率先してそれを実践していた。それは、自国の領民たちが逼迫した生活を送っているのに、大名だけが贅沢はできないという強い意志の現れであった。<br />
こんなエピソードがある。<br />
直定は江戸城内にも常に握り飯弁当で、他の大名たちの贅美を尽くした食事を嘲っていた。井伊家はこれまで数人の大老を輩出してきた幕府でも重要な家柄である。その頭首が粗食であることを陰で笑う諸大名は多かっただろうが、直定は意に介することもなく城主としての範を示して見せたのである。<br />
また、他の大名が珊瑚を珍重し自慢しているところへ、「我が庭にある草の実より採れた珊瑚也」と<ruby><rb>藜蘆</rb><rt><rp>（</rp>りろ<rp>）</rp></rt></ruby>の実<a href="#add_03">（注3）</a>を送るなど、大名が奢侈に驕る風潮を戒めている。</p>
<p>
厳しく真面目すぎるほどの直定であったが、けして融通が利かない堅物であったというわけではない。家臣のことをよく気にかけ、よりよい藩政を目指していた。<br />
ある日のことである。<br />
直定は槻御殿から望遠鏡で大洞弁財天の辺りを見ていた。大洞の茶店では酔って暴れてそのまま船に乗って内湖を渡ってこようとする藩士の姿があった。<br />
直定はこれに気付かぬ振りをしつつ、側にいた近侍の家臣たちに望遠鏡をよく覗いてみるように勧めた。
困ったのは家臣たちである。ここで酔った藩士の名を挙げれば、後で必ずきつい罰が下されるであろう。告げ口をしたことで余計な不穏は招きたくないと、景色の絶景ばかりを褒めて藩士については触れなかった。<br />
その近侍の中に加田某という人物がいた。この人だけは違う思いであったらしく、「あそこで酔っているのは誰それである」と得意満面で直定に報告した。<br />
近侍の家臣たちは肝を冷やした。藩政とは城主だけがワンマンで執り行うわけにはいかない。ここで密告したとこが知れ渡れば、現在の安定した政治にも影響がでるはずである。自分たちにも累が及ぶかもしれない。<br />
しかし、直定は加田某の言葉を聞かなかったかのように座を立った。その際、小声で「（加田某は）大名の傍には置いておく人材ではないな」と零したという。<br />
直定は、近侍の家臣たちを試したのである。大局的な藩政を省みず、自身の出世だけで同僚を密告することを恥じたのだ。</p>
<p>
将軍家重の子・家治が元服する際、直定は将軍に代わって日光に代参して加冠の役を勤め上げるなど大きな仕事もこなすが、生来の病弱は相変わらずで、長く城主を続けられないという自覚があったようである。しかし、子の<ruby><rb>直賢</rb><rt><rp>（</rp>なおかた<rp>）</rp></rt></ruby>がまだ幼いので、兄の子の<ruby><rb>直禔</rb><rt><rp>（</rp>なおよし<rp>）</rp></rt></ruby>を嗣子として次代を託すこととなった。<br />
宝暦四年（1754年）、彦根に帰ろうとした矢先のことである。藩主を継いだばかりの直禔が在任60日で死去し、彦根に帰ることができなくなってしまった。他には跡を継げる年齢の子どもはいない。<br />
直定は伊達遠江守<ruby><rb>村候</rb><rt><rp>（</rp>むらどき<rp>）</rp></rt></ruby>の弟、伊織を養子に迎えて跡を継がせようと幕府に願い出るが、直政以来の血筋を変えることになると許されず、次の嫡男が育つまで直定が再勤するように命じられることになった。<br />
これが他藩のことであれば、養子を他所から迎えることも容易かったのだろう。彦根藩で井伊家であるからこそ、直定は病身をおして二度目の藩主を務めなければならなかった。<br />
しかし、直定の身体は藩主の激務を続けられるほど、もはや若くはなかった。<br />
同年、同じく兄・直惟の子である<ruby><rb>直幸</rb><rt><rp>（</rp>なおひで<rp>）</rp></rt></ruby>を嗣子とし、その翌年に家督を継がせてそそくさと彦根に帰ってしまう。名を<ruby><rb>大監物</rb><rt><rp>（</rp>だいけんぶつ<rp>）</rp></rt></ruby><a href="#add_04">（注4）</a>と改めて養生に努めるも、さらに翌年の宝暦六年（1756年）に五十九歳の生涯を終えた。</p>
<p>
大柄で生真面目。おそらく、威圧的な雰囲気を醸し出しながら諸大名の範であろうとした直定の姿は、先ごろまで頻発した大きな天災もなく、上昇はせずとも安定した世相の鑑であったといえる。<br />
謚号は天祥院泰山定公。その遺骨は市内の清涼寺に葬られている。</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）　列伝第12回参照
</div>
<div id="add_02">
（注2）　城中における武家の礼式を管理する役職。
</div>
<div id="add_03">
（注3）　「れいろ」とも。シュロという植物の仲間。
</div>
<div id="add_03">
（注4）　元は宮中の役職の一つで、倉庫の鍵などを管理するものだった。後に武家が名前として使うようになる。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第12回 故郷への遺志～井伊直惟～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/12.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=389" title="第12回 故郷への遺志～井伊直惟～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2007:/retsuden//7.389</id>
    
    <published>2007-01-16T09:44:50Z</published>
    <updated>2007-01-19T04:30:47Z</updated>
    
    <summary>激しい気性の持ち主である反面、文化面での功績も多く遺した8代目の城主。
混迷する世相の中で藩政に活力をもたらせようとする姿には、故郷に対する強い想いがあった。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
父親の<ruby><rb>直該</rb><rt><rp>（</rp>なおもり<rp>）</rp></rt></ruby>（直興）が2度目の藩主となったとき、<ruby><rb>直惟</rb><rt><rp>（</rp>なおのぶ<rp>）</rp></rt></ruby>は僅か十一歳であった。幼名を金蔵という。3代目城主・直澄以来の彦根生まれである。直興の22番目の子として誕生したのだが、兄たちが矢継ぎ早に世を去っていく中で、幼い頃から城主としての運命を背負っていた。</p>
<p>
正徳四年（1714年）。金蔵が十五歳になるのを待ちかねたように、幕府で大老を務めていた父・直該が隠居。金蔵はその跡を継ぎ、直惟と名を改めて8代目の藩主の座に着いた。翌年には十六歳の若さで、日光で行われた徳川家康百回法要に将軍・家継の名代として代参する大任をこなしている。<a href="#add_01">（注1）</a><br />
世相は、ちょうど華美な文化の後にやってくる低迷の時代である。大きな飢饉と政治不信が沸き起こる中、直惟は彦根藩に活気をもたらそうと力を振るうことになる。</p>
<p>
直惟は苛烈な性格であったらしい。<br />
様々なことに積極果敢に取り組み、藩政の安定に心血を注いだ。<br />
同じく気性の荒かった祖先の直政や直孝を範としていたのかもしれない。彦根生まれであるということで、より郷土へ馳せる思いも人一倍強かったのだろう。<br />
このように述べれば、それまでの兄たちが穏やかな藩主であったのに、直惟だけが急に激しい気性を持ち得たように思われるが、それは少し違う。直惟もまた、兄たちと同じく病気がちであった。実際のところ、直惟も真摯に藩政と向き合っていただけではなかったのだろうか。兄たちの時代と違い、激しくなければ領民を牽引していけないくらい世の中が疲弊していたのである。<br />
幕府中興の英主・8代将軍吉宗の享保の改革と同じ時代である。改革は必要に迫られて行われる。数年間、将軍自らが断行しなければならないほど、世の中は不安定になっていたのである。質素倹約・武芸奨励が推し進められ、文治的に偏っていた政治を幕初の武断的に戻すような形で威風再興が努められていた。彦根においてもそれは例外ではなく、直惟によりそれに応じた法令がしばしば出されている。<a href="#add_02">（注2）</a></p>
<p>
激しい気性は、その趣味にもよく現れている。<br />
直惟は鷹狩りをよく好んでいたらしい。<br />
歴代の彦根藩主の中で最も狩猟を好んだ城主と言われており、大規模な鷹狩りを何度も行っている。これも武芸奨励の一環であり、領内に足しげく通い現状を具に見ようとする市井だったのだろう。彦根藩領内にはその度に鷹狩り場が整備された。<a href="#add_03">（注3）</a></p>
<p>
また、直惟は一面では絵画や詩文に巧みでもあり、多くの作品を残している。自作品以外にも伝統や文化を重んじることを心掛けていたようで、永源寺の能舞台<a href="#add_04">（注4）</a>、湯谷神社の手水鉢<a href="#add_05">（注5）</a>などは直惟の寄進であると伝えられている。遠祖・井伊共保に縁の井伊谷神社の神域補修事業を行ってもいる。<br />
歴史に名を残すということは、古文書に残る法令を多く発布した政治上手な人物を指すだけではない。現在まで伝わる有形無形に残される遺業というものもある。<br />
そういった意味では、直惟は近江国の歴史に深く名を刻んでいるといえるだろう。<br />
後世になって、その姿が再現されることもある。<br />
坂田神明神社の「蹴り奴振り」という伝統的な行列祭がある<a href="#add_06">（注6）</a>。足を跳ね上げる所作が特徴の伝統文化であるが、その由来には直惟が欠かせない。神明神社は享保十八年（1733年）に直惟が造営したといわれている。その大名行列の様子を模したのがこの奴振りであり、春祭りの際に奉納されている。<br />
彦根城石垣の改修など、今も残る建築事業の多くは直惟が行ったものが多い。そういった面から藩政を律しようとしていたようである。<br />
直惟は、例えば直政や直孝のような、華々しく語られる活躍はしていないのかもしれない。しかし、現在の彦根を象るものは直惟抜きには語ることが出来ないものが多く含まれていることもまた事実である。</p>
<p>
享保の改革に準じて行った直惟の藩政であったが、その厳しい執政は病弱な身体を確実に蝕んでもいた。<br />
事実、直惟自身は藩主の座についてから11年目。将軍・吉宗の子である家重が元服する際、先例通り加冠の任を命じられるが、病身を理由に一度は断ろうとしている。<a href="#add_07">（注7）</a></p>
<p>
直惟の藩政は、中興とまでは言われぬものの、悪化させることはなかった。しかし、防ぎきれない天運というものがある。<br />
享保十七年（1732年）、西日本を中心に記録的な冷夏が襲った。梅雨が明けぬまま夏まで雨が降り続き、作物は育たず害虫が大量に発生した。大量の餓死者を出す空前の天災であった。<br />
江戸四大飢饉のひとつ、享保の大飢饉である。<a href="#add_08">（注8）</a><br />
これが直惟に直接堪えたのかどうかは判然としない。<br />
ただ、これから僅か二年後。直惟は弟の直定に跡を継がせたいと幕府に懇願し、江戸を去っている。病気の治癒が理由であった。</p>
<p>
養生に努めたものの、更に二年後――。<br />
元文元年（1736年）、生まれ故郷の彦根にて永眠する。37年間の生涯であった。これは62歳まで生きた父・直興と比べずとも、若すぎる死であった。</p>
<p>
後世に数多くの足跡を遺した直惟は、直政と同じ彦根清涼寺に葬られ、今も故郷の土地を見守っている。</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）これは、時の将軍・徳川家継が7歳とかなり幼かったためであると思われる。将軍として政治を行う年齢ではなく、側用人たちが変わりに執政していた。将軍より幾分か年齢も上で、徳川家からの信頼も篤い直惟に白羽の矢が立てられたのだろう。ちなみに、将軍・家継は9歳で早世し、跡継ぎがいなかったため御三家から吉宗が呼ばれることになる。
</div>
<div id="add_02">
（注2）享保元年に出された振舞の法度、及び徒党立致すまじき事にはじまる十一ヵ条など。また、享保の改革で取り入れられた上米も彦根藩から幕府に献上されている。
</div>
<div id="add_03">
（注3）坂田郡丹生山（米原市）や犬上郡正法寺山・平田山（彦根市）など。愛知郡（愛荘町）や神崎郡（東近江市）などでもしばしば行われた。
</div>
<div id="add_04">
（注4）東近江市永源寺高野町にある臨済宗永源寺派総本山
</div>
<div id="add_05">
（注5）米原市米原。伝統的な曳山が伝わっている。
</div>
<div id="add_06">
（注6）米原市宇賀野。「元伊勢」とも呼ばれる天照大神を祀る神社。
</div>
<div id="add_07">
（注7）このときは幕府に許されなかったため実現していない。
</div>
<div id="add_08">
（注8）被害は西日本諸藩のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は僅か27%弱の63万石程度であった。餓死者12,000人にも達した。また、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org">フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』</a><br />
・「享保の大飢饉」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年1月16日 19:00 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/享保の大飢饉
</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第11回 混迷の世相へ～井伊直恒～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/11.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=336" title="第11回 混迷の世相へ～井伊直恒～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2006:/retsuden//7.336</id>
    
    <published>2006-12-21T09:42:57Z</published>
    <updated>2006-12-28T02:25:11Z</updated>
    
    <summary>僅か50日しか在任出来なかった城主がいた。
残された資料も少なく、多く語られることの無いその背後で時代が変容しようとしていた。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
江戸時代、上方を中心に絢爛な文化が花開いた元禄時代を終える頃になると、やがて世相は混迷の様相を呈してくるようになる。全国的な大飢饉や政治への不安が蔓延してくるのである。それを思えばこの時期、彦根城の城主が度々替わっているのも、驚くべきことではないのかもしれない。<br/>
しかし、それでも、在任が僅か50日にも満たなかった藩主がいたということには唖然とさせられる。</p>
<p>
前述もしたが、四代目城主直興の子はほとんどが夭折している。<a href="#add_01">（注1）</a>直興が最も懸念していたのは、跡継ぎのことではなかったのだろうか。<br/>
徳川四天王を勤めた直政以来、井伊家は幕府の庇護の下にあった。特別扱いを受けていたというわけではないが、それでも優遇されてはいたのだと思う。そうでなければ、嫡子が元服しないまま早世するのが続く家系には、他家から養子を招くか、お家取り潰しで新しく転封して藩主を据えるか、いずれにせよ、それなりの処置がとられていたはずである。<br/>
そうならなかったのは、直政の血筋を絶やさないように配慮した幕府の力が大きく働いていたのだろう。その絶大な力ゆえ、僅か50日といえど継がなければならない宿命があったのだ。</p>
<p>
その名は<ruby><rb>直恒</rb><rt><rp>（</rp>なおつね<rp>）</rp></rt></ruby>という。<br/>
直興の十男で、元禄六年（1693年）に江戸で生まれた。幼名は松之介、安之介。ずっと江戸で育ち、おそらくは本人もよもや城主を継ぐなどとは思ってもいなかったはずである。</p>
<p>
元禄十六年（1703年）に元禄大地震と呼ばれる記録的な災害が関東地方を襲っている。江戸城下も8000戸が倒壊する被害であった。<a href="#add_02">（注2）</a><br/>
宝永四年（1707年）には富士山が最後の大噴火<a href="#add_03">（注3）</a>をおこし、その火山灰は江戸に降り注いでいる。<br/>
このような状況の中、松之介は戦々恐々としながら生きていたに違いない。遠く離れた彦根のことまで気にかける余裕があったかどうか、それは甚だ疑問である。</p>
<p>
転機は急に訪れた。<br/>
宝永七年（1710年）三月。直興の跡を継いでいた兄の直通が彦根藩家老に対し次のようなことを申し出た。<br/>
「この度、日光東照宮へ社参することになっている。もしも不慮の事が起こっても、私には子どもがいない。万が一のため、弟の主計頭<a href="#add_04">（注4）</a>が十九歳だ。これを養子として跡継ぎにしておきたい」<br/>
彦根から日光まではかなり距離があるにしても、直通が不慮の出来事まで気にしなければならなかったのは何故なのだろうか。これは推測に過ぎないのだが、体の弱かった直通は、己の道行きに何かしらの勘働きのようなものがあったのかもしれない。不吉な予言というわけではないが、この申し出からわずか4ヵ月後、直通は彦根で生涯を終えている。二十二歳の若さであった。</p>
<p>
そして兄の遺言通り養子となり、六代目城主を継いだのが直恒であった。</p>
<p>
その後、50日弱。<br/>
直恒もまた病に倒れ、兄よりも若くして世を去ることになる。<br/>
同年10月。江戸藩邸にて没。<br/>
謚号は円城院徳厳道隣。遺骸は曽祖父・直孝と同じ世田谷豪徳寺に葬られた。</p>
<p>
その若すぎる死に慌てたのは彦根藩中はもとより、江戸幕府でもあった。<br/>
跡継ぎが無い井伊家は、このままでは直政の血を途絶えさせてしまうことになる。そこで担ぎ出されたのが、療養のため隠居していた父・覚翁（直興）であった。覚翁は直該と名を改め、次の息子が家督を相続できるようになるまで藩政を執ることになる。<a href="#add_05">（注5）</a></p>
<p>
不吉と不安が国土全体を覆い始めていた江戸中期。<br/>
直政が彦根を拝領し、その子らによって彦根城が築城されてからちょうど100年が過ぎようとしていた。</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）列伝10回参照。
</div>
<div id="add_02">
（注2）マグニチュードは8.1と推定。関東全体で12ヶ所から出火、家の倒壊約8000戸、死者約2,300名、約37,000人が被害と推定される。津波については熱海で7m程度の波の高さと推定される。1923年（大正12年）の関東地震と同タイプの海溝型地震である。
</div>
<div id="add_03">
（注3）富士山三大噴火の一つ。噴火は富士山の東南斜面で起こり、3つの火口が形成された。上から順に第一、第二、第三宝永火口が重なり合って並んでいるが、第一火口が最も大きいため麓から見ると第一火口のみ目立つ。この時以後富士山は噴火していない。
</div>
<div id="add_04">
（注4）直恒の事。
</div>
<div id="add_05">
（注5）列伝9回参照。
</div>
<p>
参考資料<br />
中村直勝監修『彦根市史 上冊』彦根市1960年（博文堂1987年復刻）<br />
彦根市史編纂委員会編『新修　彦根市史　第六巻　資料編　近世一』彦根市2002年<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org">フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』</a><br />
・「元禄大地震」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2006年12月26日 00:59 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/元禄大地震<br />
・「宝永の大噴火」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2006年12月26日 01:02 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/宝永の大噴火
</p>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第10回 仁慈の君～井伊直通～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/post_2.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=295" title="第10回 仁慈の君～井伊直通～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2006:/retsuden//7.295</id>
    
    <published>2006-12-08T03:36:21Z</published>
    <updated>2006-12-08T01:21:47Z</updated>
    
    <summary>
藩主としての在任期間は僅か9年。若くして世を去った直通は、後世にも語り継がれる優しき藩主であった。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
父親である先代城主・井伊直興には33人と子が多かったが、ほとんどが夭折している。男子は元服以前に命を落とし、女子も他家に嫁いだ3人以外はみな早逝している。その中で次代を継ぐ白羽の矢が建てられたのが直通であった。</p>
<p>
直通は元禄二年（1689年）に江戸で生まれた。直興の第19子。男子としては8番目であった。幼名は亀十郎。兵助ともいう。直通は藩主を継いでもしばらく経つまで彦根城に入ることがなく、江戸の藩邸で過ごしている。<br/>
先に述べてしまえば、この5代目の城主もまた、二十二歳という若さでこの世を去ることになる。他の兄弟たちと同じく病に倒れるのがあまりにも早すぎたのだ。十三歳で藩主を継いで在任中に逝去。僅か9年間の城主であり、彦根にいたのはその短い人生の半分にも満たない。<br/>
短期間にも関わらず、しかしながら、領民からは「仁慈の君」として篤く信頼されていたという。</p>
<p>
直通に関する逸話は多い。いずれも、美談として語られるものだ。<br/>
わざわざ高禄の武士を選んで土木作業をさせた。江戸時代は、武士の家禄は先祖の働きで大体の家禄が決められていた。家督を継いだ当人は大した働きをしていないのに高禄を得ている家もあったのだと思われる。そこには、やはり妬みややっかみがあったのであろう。直通は土木事業の役目を与えることでその非難を退けたのである。</p>
<p>
他にも奢侈な生活を戒めるために空腹時といえども粗食しか口にしなかったとか、家宝の壺を割ってしまった家臣が側役に罰せられるのを「壊れた器のために人を罰する無意味さ」を説いて免じたなどなど。<br/>
その人柄を彷彿とさせる佳話の数々である。質素倹約に努めながら、常に優しさを湛えた藩主であった。</p>
<p>
直通は万事この調子の人であったらしい。<br/>
その優しい人柄に家臣も領民も慕われた藩主であった。<br/>
歴史にもしもはありえないが、それでも、あえて仮定しよう。<br/>
もしも、直通が早逝でなかったならば、直政や直孝、そして父の直興と並び称される名君として後世にまで語り継がれていたのは間違いないだろうと。</p>
<p>
数あるエピソードの中でも極め付きなのがこれだ。<br/>
将軍に代わり京都へ伺候する御代参の仕事を命ぜられたときのことである。<br/>
直通は生まれてはじめて彦根城に入城した。<br/>
そして、泣いたのである。<br/>
一城の主が人目もはばからず、家臣団の前で大粒の涙をこぼしたのだ。家臣たちはその様子に驚き、その涙のわけを直通に尋ねたのだという。<br/>
「先祖の武功により（井伊家は）この城郭を賜った。そして、今、自分は数万の領民に主と仰がれているという幸福を思うと、知らずに涙が溢れ出て止めることが出来ないのだ」</p>
<p>
井伊家二十九代目、井伊直通。宝永七年（1710年）彦根にて没。光照院天真義空の名が謚られ、市内の清涼寺に葬られている。</p>]]>
        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第9回 中興の英主～井伊直興～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/post_1.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=276" title="第9回 中興の英主～井伊直興～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2006:/retsuden//7.276</id>
    
    <published>2006-11-19T06:00:22Z</published>
    <updated>2006-11-21T05:44:24Z</updated>
    
    <summary>「長寿公」とも呼ばれた4代目城主。
長生きはしているのだが、けして最長寿というわけではない。
中興の英主として語り継がれるその姿がその訳を如実に物語る。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
四代目となる直興が江戸で生まれたのは明暦二年（1656年）のことである。幼名・吉十郎。彼の父親は先代藩主の直澄ではない。<br />
直澄には妾腹の子があったのだが、三代城主・直孝の遺言により生涯結婚せず、その跡は兄・直時の子である吉十郎に任せることに決められていた。<br />
祖父・直孝の遺言により直澄の養子となっていた吉十郎は延宝四年（1676年）、直澄没に従って城主となり、名を直興と改めた。</p>
<p>
後に「中興の英主」として語り継がれる四代目城主の治世の始まりである。</p>
<p>
延宝八年（1680年）、将軍・家綱が亡くなり綱吉が征夷大将軍を任じられた返礼として直興は朝廷への使者を命じられ、天盃および真利の御太刀を賜るという功績を挙げる。</p>
<p>
元禄元年（1688年）には徳川家康の霊廟である日光東照宮改修総奉行を任じられ、これも遂行している。<br />
江戸幕府において、これまでの井伊家といえば軍事的な相談役の位置に置かれることが多かったのだが、この頃よりそこに少しばかりの変化が見られるようになる。<br />
元来、この直興という人は大掛かりな工事を行うのに向いていたのかもしれない。後述もするが、周囲への気配りを怠らず面倒見のいい気質であったようで、工事現場の監督のような仕事は天職ですらあったのかもしれない。<br />
直興は城主となった翌年から彦根城内に下屋敷<a href="#add_01">（注1）</a>と庭園の建造を行っている。世は元禄時代。幕府の政策に倣い全国で造園や寺院の修繕が行われたが、彦根藩でもそれを率先して行ったのだろう。<br />
完成した庭は、山を楽しみ水を楽しむという意味を込めて「楽々園」と名づけられた。同じく、造成されたのが、唐の玄宗皇帝の離宮にちなんで名づけられた「玄宮園」である。玄宮園は近江八景を景観に取り入れられ、江戸初期の名園として今も訪れる人の目を捕らえて離さない。<br />
また、松原港と長曽根港の改築も直興が手がけたといわれる。<br />
このように土木事業に専心した藩主であった。</p>
<p>
中でも最も有名なのは、やはり彦根城の北東の方角にあった大洞山の中腹に壮大な弁天堂<a href="#add_02">（注2）</a>を建立したことだろう。<br />
元禄八年（1696年）六月、弁天堂建立に際し、領内あまねく貴賎・僧俗・老幼を問わず、全ての領民から一文ずつの奉加金を募っている。藩を挙げ、全員で建築したという結果がほしかったのだろうか。<a href="#add_03">（注3）</a>このあたり、気配りが行き届く直興の性格が表れているように思う。<br />
日光東照宮の改修をそれ以前に終えていた直興は、その経験を惜しみなく大洞弁財天に注ぎ込んだ。<a href="#add_04">（注4）</a>東照宮とよく似た彫り物などが再現され、「彦根日光」と称される名刹として今も名を留めている。<a href="#add_05">（注5）</a></p>
<p>
やはり、面倒見のいい人柄においてこそ、直興という人物であったのだろう。それは個人の利益を追うものではなく、常に大局的な見地で世の中を見ることが出来たからである。直興は先々の治世にまで目を向けていた。<br />
元禄四年（1672年）、直興は藩士に命じて各家の由緒書を提出させている。「侍中由緒書」というこの75冊は、藩士の家系履歴が後世に至って紛糾することのないようにと気が配られたものであった。</p>
<p>
土木事業に専心し、幕府・朝廷・藩内からの信も篤かった直興であるが、しかしながら、必ずしも順風満帆な生涯であったというわけではない。<br />
直興には33人という多くの子がいたが、ほとんどが夭折している。直興自身も病気がちで元禄十年（1678年）に大老に任じられるが、3年後に病気を理由に家督を8男の直通に譲って彦根に帰り、直治と名を改めて養生に努めた。<br />
しかし、直通が先に逝き、次を弟の直恒に継がせたがこれも直興より先に命を落としてしまう。そのため、すでに出家し覚翁と改名していたのを捨て、直該として再び藩主に付かざるを得なくなってしまった。<br />
7代目藩主直該は4代目直興と同一人物なのである。<br />
幕府から再び大老職を命じられるも、跡継ぎである直惟が元服するのを待っていたかのようにすぐに隠居して彦根に帰ってしまった。そのとき再び直興と名をもどし、入道し全翁とまた改名した。</p>
<p>
２回藩主を経験し、２回大老を勤め上げ、４回も改名した直興。<br />
享保二年（1717年）四月、彦根にて没。享年62歳であった。<br />
遺言により遺骸は、永源寺（東近江市永源寺高野町）に葬られた。送られた戒名は長寿院覚翁知性。そこから直興は「長寿公」とも呼ばれる。<br />
後に直政、直孝に告ぐ名君と評価され、幕末の大老・井伊直弼がもっとも尊敬し手本にしようとした四代目直興。<br />
「長寿公」とはその治世の穏やかな様が持続したことへのおくり名でもあるのかもしれない。</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
注1　<ruby><rb>槻御殿</rb><rt><rp>（</rp>けやきごてん<rp>）</rp></rt></ruby>という
</div>
<div id="add_02">
注2　大洞山の中腹にある真言宗醍醐派の寺院。正式には長寿院というが、大洞弁財天として親しまれている。彦根城の鬼門除けの寺院として建てられ、今は商売繁盛を祈願する人々で賑わっている
</div>
<div id="add_03">
注3　領内から25万9526人から鳥目二七〇貫三三八文の寄進が集められた。長寿院境内内の阿弥陀堂には寄進者全ての霊位が戦国以来の近江領内の城主・館主とともに祀られている。
</div>
<div id="add_04">
注4　おそらく日光東照宮改修に引き連れていた甲良大工をここでも使ったのだろう。
</div>
<div id="add_05">
注5　弁天堂の意匠のほか、ここには百間橋の残木で作った1万体の大黒天像が楼門と経蔵の中に安置されている。（普段は非公開）<br/>
　　　また、楼門から振り返ってみる彦根城は「額縁の彦根城」と呼ばれ、景勝地としても有名。
</div>]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第8回 穏やかな肖像～井伊直澄～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/8.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=197" title="第8回 穏やかな肖像～井伊直澄～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2006:/retsuden//7.197</id>
    
    <published>2006-10-21T12:30:56Z</published>
    <updated>2006-10-29T02:27:23Z</updated>
    
    <summary>嫡男でないのに家督をついだ三代目城主。
温和な人柄で穏やかに治世を行った彼もまた、数奇な星のめぐり合わせの下にいた。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
彦根三代目城主は直澄という。<br />
幼名、亀之助。先代城主・直孝の五男として生を受けた彼は、本来ならば家督を継ぐこともなく、平穏な生涯を送るはずだったのかもしれない。向き不向きという言葉が正しいかは置いておくにしても、直澄自身は城主という派手な役職をけっして望んでいたわけではなかった。<br />
鬼よ夜叉よと呼ばれてきた直孝とは違い、17年間、終ぞ穏やかな治世を崩すことはなかったのである。</p>
<p>
直澄について語るなら、その兄・直滋を避けることはできない。順当にいけば、この兄こそが三代目を継いでいたはずだった。</p>
<p>
直滋は先代・直孝の長男として生まれた<a href="#add_01">（注1）</a>。早くから徳川二代将軍・秀忠、三代将軍・家光に寵愛されて育ち、江戸城下で何不自由ない暮らしをおくっていた。譜代大名筆頭にして徳川四天王の家系の嫡男であったためか、乳母日傘で可愛がられていたのだろう。それが直滋にとっての仇となった。<br />
成長した直滋は、将軍の後ろ盾もあってか<a href="#add_02">（注2）</a>、資質がすこぶる大度であったという。良く言えば、はっきりとした物言いで一本筋の通った性格。悪く言えば、負けず嫌いで威をかざす性質である。それが、何よりも、質素倹約を厳命としていた父・直孝と反目する引き金となっていた。<br />
直滋は、その言を持って、父すらもやり込めてしまうことがあったという。<br />
かたや、父においても、命を守らない家臣を斬って捨てたという夜叉の直孝である。似たもの親子であるのだが、この場合それがいけなかった。<br />
直孝が欲していたのは、自分とよく似た子ではなく、自分の言うことを聞く子であったのだ。どうも、長男のことはよく思っていなかったらしい。直滋が他から可愛がられれば可愛がられるほど、家督を譲るのを拒むようになっていった。<br />
直滋も父の性格をよく知ってか、家督を継げないと知るや床に伏すようになった父を置いて、百済寺<a ref="#add_03">（注3）</a>にさっさと遁世を決め込んでしまった。</p>
<p>
混乱したのは彦根井伊家であった。急に跡継ぎが出家してしまったのである。井伊家譜にも「どういうわけだかはっきりしないが、出家してしまった」と記録がある。当主の直孝は病床にあり、日者<a href="#add_04">（注4）</a>のような力は弱まっている。早く次代を決めなければならない。そこでにわかに着目され、白羽の矢が立てられたのは、彦根城内の三男部屋に住まいしていた直澄であった。</p>
<p>
直孝が没すると同時に、直澄は彦根城主を継いだ。<br />
彼は直孝の遺訓を守ることに徹したのだという。終生、節約に努めつつ、武具を新調し、徳川幕府の危機にはいつでも出陣できるよう用意を怠らなかった。しかし、泰平の世となった時代において、それは地味な作業でしかなかったとする声も高い。</p>
<p>
直澄はそれに不服を唱えることはなかった。むしろ、好んで地味な立場でいようとした節もある。<br />
直孝は、本来なら五男で家督を継ぐことなどない自分にその座を譲った、大恩ある父である。直澄にはその遺志こそ全てであったのだろう。<br />
直澄は父から「お前（直澄）の縁談の件だが、その必要はない。兄（直時）の子を養子にとりなさい」と言われたのを守り、生涯独身であったという。<br />
父親にしてみれば、『譜代筆頭の井伊家への縁談は、きっと徳川家に迷惑が及ぶに違いない。ただでさえ、その地位をやっかむ輩が多いのに、わざわざ助長することもない』という思いがあったと思われる。直滋が将軍家光から家督を継いだら100万石に加増してやるといわれたのを聞いて激怒したというエピソードからもそれはうかがえる。井伊家に向けられた余計な非難の種は、たとえわが子の結婚といえど、払おうとしたのである。<br />
そして直澄は、父の気持ちを十分に汲んでいた。</p>
<p>
元来、直澄は穏やかな気質で争うよりもなだめるタイプであった。<br />
それは幕府の中で大老職についても変わることがなかったようだ。<br />
こんな逸話が残っている。<br />
ある日、直澄は徳川光圀の伴として、4代将軍・家綱の茶会に参じたことがあった。将軍が直々に点てた茶を水戸のご老公様が召し上がるのを側で見るのが役目である。当然、直澄自身が一滴たりとも口にすることはない。<br />
ここで事件が起こる。家綱は茶を点てるのに慣れていなかったのか、一人では飲みきれない量をご老公に出してしまった。今さら引っ込めるわけにもいかない。出された光圀も天下の将軍が出してくれた茶を残すわけにもいかない。場は一瞬にして不穏な空気に包まれた。<br />
そこに進み出たのが直澄であった。<br />
「将軍様がお点てになったお茶など勿体無くて頂戴する機会はございません。ご老公様、もしもお飲み残しであるようなら、是非拙者にも賜れないでしょうか」<br />
光圀は胸をなでおろし、家綱も「余ればそのまま直澄へ」と言ったという。光圀が将軍の点てた茶を残すという無礼も、大量に作りすぎたという家綱の恥も、直澄の一言で回避されたのである。</p>
<p>
穏健で機智に富んだ三代城主・直澄。<br />
この時代、彦根藩では、全国で唯一、牛肉の味噌漬けが作られる<a href="#add_05">（注5）</a>など、文化的な発展もめまぐるしい。穏やかな治世であったからこそ、直澄がいたからこその世の中であった。<br />
また、直澄は父･直孝の供養する石塔を多景島に建てている。いつまでもその恩を大儀に感じていたのだろう。</p>
<p>
延宝四年（1676年）正月。江戸にて没。享年52歳であった。<br />
彦根清凉寺蔵のその肖像画は、やはり穏やかな表情で描かれている。</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注１）慶長十六年（1612年）江戸で生まれる。幼名は直孝と同じ弁之助。後に<ruby><rb>靱負</rb><rt><rp>（</rp>ゆきえ<rp>）</rp></rt></ruby>と称した。
</div>
<div id="add_02">
（注2）十七歳で従四位下、侍従に任じられている。これは異例のことで、父の直孝ですらその官位になったのは２５歳のことである。寛永九年（1632年）には、江戸詰めにより彦根に帰れない直孝に代わり、将軍・家光から彦根の国政を裁決せよと命じられている。（まだ当主をついでもいないのに）
</div>
<div id="add_03">
（注3）滋賀県東近江市にある天台宗の寺。山号を釈迦山と称する。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の一つとして知られる名刹。直滋の墓所がある。
</div>
<div id="add_04">
（注4）往年。昔日。
</div>
<div id="add_05">
（注5）<ruby><rb>反本丸</rb><rt><rp>（</rp>へんぽんがん<rp>）</rp></rt></ruby>という。江戸幕府は基本的に肉食を禁止していたため、滋養をつける薬として全国に出回った。これは幕末まで続き、幕府や他藩から要求が絶えなかったという。近江牛が名産となるはしりとなった。
</div>

]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>第7回 鬼を継ぐ夜叉～井伊直孝 其の弐～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hikone-400th.jp/retsuden/contents/7.php" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://400th.heteml.jp/CMS/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=7/entry_id=172" title="第7回 鬼を継ぐ夜叉～井伊直孝 其の弐～" />
    <id>tag:hikone-400th.jp,2006:/retsuden//7.172</id>
    
    <published>2006-09-24T09:07:17Z</published>
    <updated>2006-10-08T07:07:33Z</updated>
    
    <summary>直孝が目指したのは父の背中であったのか。
彦根城下町を形作り、江戸幕府において井伊家の地位を確たるものにした二代城主は夜叉と呼ばれた男であった。</summary>
    <author>
        <name>実行委員会事務局</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hikone-400th.jp/retsuden/">
        <![CDATA[<p>
大坂冬の陣は血で血を洗う凄惨な戦いであった。<br />
謀略と裏切りと罠と混戦で敵味方問わず、双方多大な戦死者を出していた。<br />
そんな中、井伊直孝は彦根藩兵4000を率いて赤備えの先陣に立っていた。<br />
迎えるは、真田幸村<a href="#add_01">（注1）</a>の赤備え隊。<br />
これが並みの武将であるなら、あるいは、直孝の敵ではなかったのかもしれない。父、直政と同じく、戦場を真っ先に駆け抜け、数々の武功を挙げることができたであろう。しかし、相手は真田。「日の本一の兵（つわもの）」と呼ばれた智将である。その巧みな戦術の前に直孝は武運にも見放されるのである。
</p>
<p>
当初、豊臣側の真田幸村が出城として構えていた真田丸は、徳川家臣の前田利常が攻めていたが真田の挑発に踊らされその軍勢を瓦解させてしまう。<br />
利常軍の突撃を見て居ても立ってもいられなくなったのが井伊直孝と松平忠直であった。血が騒いだのであろう。直孝は「我々も！」と急に突撃を開始した。<br />
しかし、真田幸村はそれを事前に読んでいた。完璧なまでの防御がすでに完成していたのである。二重の柵の間にはまり、身動きが取れないでいる直孝軍を豊臣側の木村重成<a href="#add_02">（注2）</a>が一斉射撃。次いで、横から参戦した真田軍も射撃に加わり、直孝軍は500人の死者を出す大被害となった。<br />
豊臣軍はある程度痛めつけると、また城内へ引き返していった。<br />
直孝は、兄の替わりに参戦したこの戦で、敗北の苦汁を嘗めたのである。
</p>
<p>
戦はなんとか講和を迎える。<br />
結果としては、大坂城の外堀を埋めるという徳川に有利な形で終えることとなったが、受けた傷跡は浅いものではなかった。<br />
直孝は、急に突撃をしたことを軍令違反として徳川秀忠に咎められ、処罰されかかったが、家康が「味方諸軍を勇み立たせる結果となった。よくやった」と褒めたため、処罰は免れた。<br />
翌年。<br />
慶長二十年（1615年）、直孝は家康より正式に彦根城主に命じられる。18万石の内、15万石を拝領。残り3万石は兄･直継にわけられた。二代目城主の誕生である。<br />
しかし、冬の陣で無様をさらした直孝に何故、こうも家康は入れ込むのか……。<br />
落胤という噂は、あながち間違いではないのかもしれない。
</p>
<p>
同年5月。<br />
再び大坂で戦役が勃発する。世に言う夏の陣である。<br />
直孝は前回の汚名返上のためにもと、再び赤備え隊を率いて参戦する。
</p>
<p>
当初、直孝は先陣を任された藤堂高虎<a href="#add_03">（注3）</a>とともに、道明寺方面に向かおうとしていた。<br />
しかし、直孝は戦場の臭いを嗅ぎ付けることには長けていたのであろう。向かう方向には戦場がないこと察知した直孝は、「このまま作戦通りに」と進言する老臣たちの意見を無視し、突如として若江方面に転進する。そこには前回の宿敵であった木村重成が待ち構えていた。<br />
直孝軍から銃撃を開始。戦の火蓋が切って落とされた。<br />
最初こそ互角であったが、やがて直孝軍が勢いを増し、木村軍を打ち破る。<a href="#add_04">（注4）</a>
</p>
<p>
この戦での直孝の活躍は目まぐるしい。<br />
木村重成を討ち取った後、豊臣秀頼を追い詰め自害させる。やがて、徳川の本隊が大坂城を取り囲むと、真っ先に火矢を放ち、淀殿をも追い込んだ。<br />
それはまさに夜叉の所業であった。
</p>
<p>
夏の陣の結果、彦根の井伊直孝は天下に名を轟かせた。<br />
その後、井伊家は５万石が加増され、直孝も従四位下・侍従へ昇格。これを島津家の薩摩旧記では「日本一の大手柄」と賞賛している。<br />
その後、井伊家は京都の監視と畿内への抑えとして加増が繰り返され、嘉永１０年（1633年）には30万石（＋城付き米5万石）に加増され大大名として揺るぎなく確立したのだった。<br />
直孝は、３代将軍徳川家光のもとに元老<a href="#add_05">（注5）</a>の立場で迎えられ、意見があるときはいつでも拝謁できる地位となった。このため、直孝自身も江戸住まいとなり、居城の彦根にはあまり帰らなかったといわれる。
</p>
<p>
幕府での直孝に向けられた相談事は、主に軍事方面が色濃かった。<br />
お隣の大陸で清<a href="#add_06">（注6）</a>に滅ぼされた明の遺臣らが江戸幕府に助けを求めたことがあった。<br />
幕臣らは、これに参戦し、巷にあふれ出た浪人を戦地に送ろうと計画していたが、直孝が「豊臣家の朝鮮出兵を再現するのか」と一喝し、計画を潰したのだという。愚行だと諌めたのである。やがて、明は滅び、江戸幕府はその類災を被らずに済んだのである。
</p>
<p>
その後、直孝は４代将軍・家綱の側でもご意見番として活躍するかたわら、彦根城下の整備にも力を入れた。現在の彦根城下町の基礎が大体固まったのは直孝の頃だといわれる。<br />
直孝にしてみれば、幼い頃に憧れた父･直政の偉業を継ぐことを本懐としておいたのだろう。
</p>
<p>
戦乱とともに生きた父･直政の背中を追い、重なるような生涯を目指した直孝。<br />
晩年にこんな逸話を残している。<br />
直孝は、父同様に家臣に厳しい質素倹約をさせ、自身もそれを身上とし、家臣よりも簡素な衣類で過ごしていた。やがて床に伏すようになり、医者に「不養生だから病になるのだ」と進言されると、次のように応えたという。<br />
「その方は名医ではあるが、戦には疎い。戦場では湿った土の上でも寝るものだ。体を温めるようでは徳川の先手は務められぬよ」
</p>
<p>
万治二年（１６５９年）井伊家二十六代直孝、永眠。享年６９歳。<br />
遺骨は縁の深い世田谷の豪徳寺<a href="#add_07">（注7）</a>に葬られた。
</p>
<p>
この後、井伊家は譜代大名として群を抜く大老職を排出する家系の道を歩んでいく。
</p>]]>
        <![CDATA[<div id="add_01">
（注1）真田信繁が正しい。幸村は後の講談や小説で使われた名前。日の本一の兵（つわもの）と評される豊臣家臣の武将。
</div>
<div id="add_02">
（注2）豊臣家家臣の武将。秀吉の息子、秀忠とは幼馴染であった。実直な性質で、夏の陣の講和の際、家康の返事が曖昧だと声を荒げたといわれるほど、曲がったことが嫌いであった。歌舞伎の演目「木村長門守」の主人公は彼である。
</div>
<div id="add_03">
（注３）戦国時代から江戸前期にかけての武将。伊予今治藩主。出身は近江犬上郡藤堂村（現在の滋賀県犬上郡甲良町）
</div>
<div id="add_04">
（注４）木村重成の首は直孝の家臣・安藤家の菩提所であった彦根城下の宋安寺（現在の滋賀県彦根市本町）に葬られ、現存している。
</div>
<div id="add_05">
（注5）後の江戸幕府最高職の大老となる役職。大政に参与する役職で、鎌倉幕府の執権と同じような役割を担っていた。1638年土井利勝・酒井忠勝が元老職に就いたのがその起源とされる。
</div>
<div id="add_06">
（注6）1644年に建国。清朝ともいう。明の支配下で、満州に住む女真族のヌルハチが1616年に独立して建国した後金国がその前身で、ヌルハチの子ホンタイジ（太宗）が玉璽を握り、大清皇帝を名乗ったところからはじまる。
</div>
<div id="add_07">
（注7）現在の東京都世田谷区豪徳寺にある。井伊家の菩提寺でもある。招き猫に誘われて寺に立ち寄った直孝が急な雨から逃れたという伝説がある。
</div>]]>
    </content>
</entry>

</feed> 


