第21回 最後の藩主~井伊直憲~
先代藩主暗殺をうけ、次代を継いだ藩主・井伊直憲。
時代が区切られる狭間で、近世から近代へつないだ彦根藩主最後の列伝。
大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺された事実(注1)は、瞬く間に江戸城内、朝廷をはじめ、日本中に広がった。世情は、佐幕か倒幕かで揺れる幕末である。佐幕の旗手であった直弼の死は、彦根藩だけでは持て余す大事であった。
やがて時代は、一つの区切りを迎える。
近世から近代へ。旧態から新態へ。先祖から受け継ぎ、次代へと渡す架け橋を担う人物に後の世が託された。
井伊
彦根藩最後の藩主である。
直憲は、直弼の次男として嘉永元年(1848年)に江戸で生まれた。幼名は
幕政の中心であり、「井伊の赤鬼」と恐れられた父に比べると、かなり穏やかな人柄だったようである。
直憲の身辺が慌しくなるのは、元服を控えた12歳のことである。
万延元年(1860年)、父・直弼が水戸浪士らによって暗殺されたという報せは、彦根城内を混乱させた。
当時、大名の不慮の死は、理由の如何を問わず家名を断絶させるのが幕府の方針であった。藩主とは、一国と命運を共にする者のことである。それが謀殺されても、家名を続けさせたとなれば、幕藩体制が根幹から危うくなる。ましてや、幕政の最高責任者である大老が暗殺されたのだ。江戸城としても看過できるはずがなかった。
戦々恐々としたのは、彦根城である。このままでは、藩祖・直政から続く彦根井伊家は取り潰しとなるのは必至。しかも、藩主が暗殺されたのにも拘らず、仇討ちをしないまま、只、幕府からの命令を黙って待っていたとなれば、世の笑いものとして語り継がれることになるだろう。
藩主を失い、尚も、後ろ指を指されていかねばならないのなら、せめて復仇だけは果たしたい――というのが彦根藩士らほとんどの思いであった。
本人たちの自白により、犯行は水戸学派の手によるものであったことはすでに彦根まで伝わっていた。このまま水戸と一戦交えるべきだという機運が高まり、一触即発の緊張が城下に伝播していた。
その空気を急ぎ収めねばならなかったのは、他でもない江戸幕府であった。彦根藩は譜代大名の筆頭。対する水戸藩は徳川御三家の一つである。いわば、身内同士。京都などでは倒幕の志士たちの暗躍が激しくなってきている中、江戸城内に争いの火花を持込むわけにはいかなかった。彦根と水戸の衝突は、是が非でも回避せねばならなかった。
幕府は、悲しみと怒りに湧き立つ彦根を押さえるため、異例中の異例ともいえる方策を取る。
「大老は登城中に大怪我を負ったため、療養中」と発表したのである。直弼の死が公でないのならば、井伊家を潰す必要はなくなり、彦根藩の怒りも鎮まるだろうとの計らいであった。
直弼の死は、こうして一時的に隠されることとなった。藩主が暗殺されたのにも関わらず、彦根藩には何の咎めも下されることはなかったのでる。
このとき、新しく藩主として指名されたのが、直憲であった。しかし、この幕府の苦肉の策は、すぐに覆されることとなる。
直弼が暗殺されると、当然の事ながら、反直弼派が幕政の中枢を担うようになった。これまでの直弼の為政は全て悪行であったと判じられるのに、時間はかからなかった。条約調印は詔勅を無視した大罪。安政の大獄は至上の悪行。大老は暗殺されても仕方なかった――と世間は断じるようになったのである。
若い彦根藩主・直憲は、その非難を一身に背負わねばならなかった。
彦根藩は歴代の役職であった京都守護職を罷免され、10万石が没収された。桜田門の変から生きて帰った家臣と直弼の側近は、直憲の命により処罰された(注2)。
直憲は、一大名として、幕府の命令を遵守した。それは、藩内の家臣や領民らを守るために他ならない。依怙地になって復仇を叫ぶことは容易であったろうが、藩のため、家名のため、領民のため、あえて険しい道を選んだのだろう。
彦根藩最後の藩主は、藩の行く末を史上で最も深く考えていた人物だったのである。
失墜した藩の信頼回復のため、汚名を返上するため、直憲は東奔西走する。
世の中は倒幕へ傾きかけている。青息吐息の江戸幕府は、それでも抗うことをやめない。
文久三年(1863年)、クーデターにより薩摩藩や会津藩などの公武合体派が長州藩などの尊皇攘夷派を朝廷から追い出す(注3)と、対立は目に見えて激化。錦の御旗を手にした者が正義であると、両陣営が天皇を巡って武力衝突を繰り返すようになる。
彦根藩は幕府軍の先鋒として、禁門の変(注4)、長州征伐(注5)などに参加した。この時、直憲は、藩祖・直政が先陣を切った関ヶ原の合戦での出で立ちと同じく、伝来の赤備え姿で身を固めていたと言われている。
彦根藩は武功をあげ、召し上げられた10万石の内、3万石を回復するまでになったが、少し遅かったといわざるを得ない。時代の方が先に区切りをつけようとしていた。
西洋式の武力を有した反幕府軍の前に、幕府は次第に劣勢を強いられるようになった。加えて、長州藩や薩摩藩が倒幕に向けての詔勅をとり、名実共に官軍と称されるようになる。幕藩体制の崩壊は、目前であった。
彦根城内でも、時勢を読むべきとの声が高くなっていた。このまま、幕府軍に与していては、やがて来る新時代に於いても彦根は汚名を被るだろうと言う者と、玉砕しても藩の意地だけは貫き通すべきだと言う者の口論が後を絶たない。決断は、藩主である直憲に委ねられた。
これが、他の藩主あれば、また別の決断を下したのかもしれない。直政から「徳川に従うべし」と言い遺されてから、彦根藩はそれを矜持としてきた。譲れない信念であった。
しかし、この時の藩主は、直憲であった。
藩の、家臣の、領民の、全てのこれからを最も深く考えた人物である。藩としてのプライドより大切な物があると直憲は判断を下すことになる。
慶応四年(1868年)。直憲20歳。
先年、王政復古の大号令(注6)により、670年ぶりに朝廷へ政権が戻ったことにより、官軍は倒幕へ向けて勢いを増していた。
この年、新たに設立した明治新政府が旧江戸幕府勢力を一掃する戊辰戦争(注7)が勃発。
井伊家は、当初、その前哨戦となる鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として参加するも、大敗(注8)。以降、官軍として立場を変え、戦っていくことになる。
直憲は、その後、幕府軍の有力人物であった元・新撰組の近藤勇を拿捕するなどの功績を挙げつつ、新時代を迎える。 廃藩置県(注9)まで彦根知藩事として過ごし、後に華族令(注10)で伯爵と列せられた。
時代は江戸から明治へ。長かった近世はようやく幕を閉じる。
江戸時代から彦根に続いた、藩主たちの列伝もここで一区切りである。
参考資料
中村直勝監修『彦根市史 上冊』『中冊』『下冊』彦根市1960年(博文堂1987年復刻)
彦根市史編纂委員会編『新修 彦根市史 第六巻 資料編 近世一』彦根市2002年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・「桜田門外の変」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年12月12日18:00(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/桜田門外の変
・「禁門の変」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年12月12日18:10(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/禁門の変
・「戊辰戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年12月12日18:20(UTC)、http://ja.wikipedia.org/wiki/戊辰戦争







