HIKONE Web ガイド

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築城400年祭をガイドして

 3月21日から始まった「国宝・彦根城築城400年祭」は、盛況のうちに推移し、はや残り3カ月となりました。お陰さまで、ご依頼の有った「予約ガイド」は例年の三倍近く、「ご城下巡回バス」には毎日乗務と、彦根ボランティアガイド協会の会員はガイド活動に日々忙しく過ごしております。

 ガイドが好きで当協会に入っている私たちにとって、例年の三倍のガイド機会が有る今年は、本当に恵まれた年です。しかし、手放しで喜んでばかりはおれません。期間中は見所が増えていて、しかも混雑しているのに、多くのお客さまの滞在時間は、今までと大差が有りません。そんな状況の中でご案内するのは、いつも以上に難しいことかと思います。またそれと共に、ご案内回数が多いことで、変に「ガイド慣れ」する恐れも有ります。

 こんな時こそ初心にかえって、謙虚に自分のガイド内容を反省し、一回一回のガイドに心をこめて、今年の秋をより充実したものにしたいと、私たちは願っております。

P6010074(ひこにゃん).jpg

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ようこそ彦根へ(11)「探してみよう!! 彦根城の転用材(五)」

「石」について

(1)彦根城の築城時には、大坂にまだ豊臣家の勢力が残存していましたから、築城は急ぐ必要がありました。山から石を切り出して、悠然と構えた築城はできません。そこで、近くにある石を移し、石垣用として転用しました。

(2)どの位の石の量が必要なのでしょうか?
大坂城の石垣の石の量(表面に見えている数)は約100万個(海津栄太郎 元関西城郭研究会会長)といわれています。ちなみに、大きさは異なりますが、エジプトのクフ王のピラミッドの石は約300万個です(NHK TVより)。
彦根城の石の量も莫大な数となるでしょう。

(3)いつごろ、どの地域から石を移したのでしょう?
古文書には「佐和山、大津、安土、長浜の古城より来る」とあります。
前出の海津栄太郎氏の推定によれば、
・大津城:第1期
・安土城:第2期
・佐和山城:一部は第1期、残りは第2期
・長浜城:第2期
・敏満寺:第1期(多賀町教育委員会)

 第1期工事で造営した第一郭の内堀以内の石垣は、大津城、安土城、及び佐和山城の一部から転用したと考えられる。すなわち、長浜城は慶長年間幕府直轄領でした。内藤氏が長浜に入城し、大修築を行い、北陸勢力に対する近畿最北端の前線陣地としました。元和元年の「大坂夏の陣」後に、内藤氏を高槻に転封し、長浜城を廃城、城を取り壊し彦根城築城用材に使われた。この事から、長浜城の石垣は彦根築城の第2期以降となります。

 また、佐和山城の石垣は、井伊直政及び家臣団が残存する城内の建物を利用していたので、彦根築城と並行して行われる武家屋敷が整うまで、佐和山の石垣を取り外すことはできなかった。佐和山から彦根への転出者が増えるに従い、壊せるところから順に少量ずつでも彦根に運んだのでしょう。
それ故、第1期の一部と第2期にかけて、佐和山の石垣は取り壊された。
彦根城と佐和山2.jpg

 第1期に必要な石を補充するため、安土城の山下の運びやすい位置からも採取した。それに、信長により元亀3年(1572)焼き討ちを受け、廃寺になった敏満寺(胡宮神社)の堂塔礎石は彦根城に運ばれた。
現在は総大門の礎石と灯籠台座石一基が残されている(多賀町教育委員会)。
彦根城ではっきり転用材(石)としているのは、第1期の第一郭に集中している事からも、急ぐ必要があったので、近くの墓石・石小仏等、てっとり早く運搬しやすい所から取り外されたものと言える。

(4)具体的な転用材(石)は、①~⑦までが分かっています。
①石仏:「着見櫓台東面石垣」(普段歩けない所です)
②宝篋印塔(ほうきょういんとう)基礎:「裏坂曲がり角」(下り左側石垣、見つけやすい)
③枘穴(ほぞあな)付台石:「太鼓門櫓左隅石垣」(見つけやすい)
④石棺材:「鐘の丸登り口右の根石」(分りにくい)
⑤宝篋印塔基礎:「鐘の丸石垣出角、大手竪掘の前」(分りにくい)
⑥小型石塔部品数個:「大手桝形石垣の中から」
⑦宝篋印塔基礎:「内堀外側、彦根東高校前の分岐道路」(堀側に身を乗り出すと見ることができる)

いずれにしても、転用材であることは分りますが、どこから来たものかは分らずにおります。