「石」について
(1)彦根城の築城時には、大坂にまだ豊臣家の勢力が残存していましたから、築城は急ぐ必要がありました。山から石を切り出して、悠然と構えた築城はできません。そこで、近くにある石を移し、石垣用として転用しました。
(2)どの位の石の量が必要なのでしょうか?
大坂城の石垣の石の量(表面に見えている数)は約100万個(海津栄太郎 元関西城郭研究会会長)といわれています。ちなみに、大きさは異なりますが、エジプトのクフ王のピラミッドの石は約300万個です(NHK TVより)。
彦根城の石の量も莫大な数となるでしょう。
(3)いつごろ、どの地域から石を移したのでしょう?
古文書には「佐和山、大津、安土、長浜の古城より来る」とあります。
前出の海津栄太郎氏の推定によれば、
・大津城:第1期
・安土城:第2期
・佐和山城:一部は第1期、残りは第2期
・長浜城:第2期
・敏満寺:第1期(多賀町教育委員会)
第1期工事で造営した第一郭の内堀以内の石垣は、大津城、安土城、及び佐和山城の一部から転用したと考えられる。すなわち、長浜城は慶長年間幕府直轄領でした。内藤氏が長浜に入城し、大修築を行い、北陸勢力に対する近畿最北端の前線陣地としました。元和元年の「大坂夏の陣」後に、内藤氏を高槻に転封し、長浜城を廃城、城を取り壊し彦根城築城用材に使われた。この事から、長浜城の石垣は彦根築城の第2期以降となります。
また、佐和山城の石垣は、井伊直政及び家臣団が残存する城内の建物を利用していたので、彦根築城と並行して行われる武家屋敷が整うまで、佐和山の石垣を取り外すことはできなかった。佐和山から彦根への転出者が増えるに従い、壊せるところから順に少量ずつでも彦根に運んだのでしょう。
それ故、第1期の一部と第2期にかけて、佐和山の石垣は取り壊された。

第1期に必要な石を補充するため、安土城の山下の運びやすい位置からも採取した。それに、信長により元亀3年(1572)焼き討ちを受け、廃寺になった敏満寺(胡宮神社)の堂塔礎石は彦根城に運ばれた。
現在は総大門の礎石と灯籠台座石一基が残されている(多賀町教育委員会)。
彦根城ではっきり転用材(石)としているのは、第1期の第一郭に集中している事からも、急ぐ必要があったので、近くの墓石・石小仏等、てっとり早く運搬しやすい所から取り外されたものと言える。
(4)具体的な転用材(石)は、①~⑦までが分かっています。
①石仏:「着見櫓台東面石垣」(普段歩けない所です)
②宝篋印塔(ほうきょういんとう)基礎:「裏坂曲がり角」(下り左側石垣、見つけやすい)
③枘穴(ほぞあな)付台石:「太鼓門櫓左隅石垣」(見つけやすい)
④石棺材:「鐘の丸登り口右の根石」(分りにくい)
⑤宝篋印塔基礎:「鐘の丸石垣出角、大手竪掘の前」(分りにくい)
⑥小型石塔部品数個:「大手桝形石垣の中から」
⑦宝篋印塔基礎:「内堀外側、彦根東高校前の分岐道路」(堀側に身を乗り出すと見ることができる)
いずれにしても、転用材であることは分りますが、どこから来たものかは分らずにおります。