ようこそ彦根へ(6)
<佐和山城跡の古道を探して>
①.佐和山城跡の古地図には、女郎ヶ谷の下から塩硝櫓にかけて腰曲輪なる古道が描かれている。今、この道がどの様になっているのか? 歩けるのか? 私の仲間で行ってみようと計画したのが、冬の晴れた日でした。
②.最初に目指したのが、古絵図に印してある烏帽子岩と七つ岩です。しかし、この岩もどこにあるのか見当もつきません。そのために、太鼓丸の分岐点から鳥居本側へシラミ坂を下り(近江鉄道の近くまで)、下から目標の岩を探しました。冬季は草・ツタ類が枯れているために、岩を見つけることが出来た。そして、直登する組と、左側(シラミ坂)を迂回する組に分かれて登り始めた。すると、直登組から、七つ岩の上で、道らしいものを発見したと、連絡があった。合流してみると、そこには絵図にある古道がはっきり残っていた。女郎ヶ谷と塩硝櫓の中間辺りで、道幅1m弱の古道が、ずっと左右に続いている。ここで昼食をとって、塩硝櫓方面に歩き始めた。所々傾斜部で山崩れがあって、足元の道が分かりづらくなっている。しかし、前方の道を見つけることは容易であった。見事な古道(腰曲輪)となっている。石田三成時代には多くの侍たちが行き交ったところだろうか?
③.ある冬の日に、水戸の高校の先生Aさんから、佐和山城跡のガイド依頼があった。「どの様なガイドコースをお望みですか?」とお聞きすると、「普通のハイキングコースではなく、昔のイメージが生まれそうなコースを」とのリクエストがあった。「それでは、長靴またはそれ相当の靴と防寒具を準備してください。」
Aさんは米原からレンタカーで見えた。そして、龍潭寺の駐車場で車から長靴を出し、「山歩きは長靴に限る」と山城経験者らしいAさん。
④.最初に案内したのが、塩硝櫓。ここから鳥居本側を見て、二の丸、水の手と、佐和山城跡全体像を説明する。関ヶ原の戦の二日後9月17日に佐和山城は落城しますが、あそこの水の手辺りから防御線が崩れました。(もちろん、身内からの裏切りもありましたが。)この塩硝櫓の所に登ってくる古道があります。後で一緒に行きましょう。
⑤.天守に登り、彦根城側および鳥居本側の中山道を中心に説明する。ここ佐和山城が交通の要であることが一目で分かる。また、湖北の浅井、南の六角の地盤も分かる。ここが境目の城だとも認識できる。彦根城を新しく造るときに、佐和山城を破城して、石・木・瓦など全てを持ち去っているはずだが、数年前に石垣の一部が発見された。急な傾斜部であり、この石垣は破城時の土砂で埋まってしまったのだろう。この石垣の石は、意外と小さい。
⑥.天守をあとに太鼓丸の土塁・瓦の欠けた一部を見て、堀切の跡、切通しを案内する。立派な堀切であることを確認し、鳥居本側の大手門前で佐和山城全体を説明し、今からの行動予定の三の丸・二の丸を登って、右道を行きます。この頃、どんよりしていた空から小雪が降り出した。急ぎ昼食をとり、小休憩する。
⑦.三の丸まででは苦労なしに進む。三の丸から二の丸への山道は、ブッシュをかき分けて進むこともあるが、まあ歩き易い方でしょう。二の丸の急勾配を登ると、つる草で大変ですよ。しかし、驚いたことに、二の丸の下辺りで道に覆いかぶさっていた草・木・つる類が一切なく、見通しの良い状況となっていた。(市文化財課の測量のため、整備中だった。)
二の丸の郭がこんなに広く、また右側の二の丸下郭もはっきりしている。この場所は堀切も残っていて、二の丸全体が堀切で囲まれていた。ここを三成の兄石田正澄が守っていた。平らな所には瓦の破片が残っていることから考えると、二の丸には建物があって、四方の木がなく、見通しの良い、堀切と城壁で守られた櫓は、頑丈だったろうと推測する。
⑧.二の丸を過ぎて、絵図にある腰曲輪の古道を女郎ヶ谷の下へと歩く。女郎ヶ谷の方は、古道もはっきりしてなく、ケモノ道となっていて、分かりづらい。また、この頃になって、雪も少し激しくなってきた。それでもAさんは、全く平気な様子。ものすごく山が好きなのだろうな? 女郎ヶ谷の下の古道に来て、女郎ヶ谷の名のいわれを説明する。その後、月見櫓の石垣(大きい石二個が算木積となっている)を見て、龍潭寺へと戻る。雪も止んで、太陽が出てきた。

「今日のコースは如何でしたか?」と私、すると「楽しみました。満足の行くものでした。明日は小谷城に行きます。」と山好きなAさん。きっと、あの長靴も活躍するだろう。
その後、Aさんから私あてに小冊子が送られてきた。水戸史談会の方が書かれた「桜田門外の変」です。今、私は、Aさんに答えるべく彦根側から見た「桜田門外の変」を勉強中です。







